タカイ×タカイ 森 博嗣 ------------------------------------------------------- 【テキスト中に現れる記号について】 《》:ルビ (例)牧村亜佐美《まきむらあさみ》 |:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号 (例)一度|瞬《またた》いた ------------------------------------------------------- 〈帯〉  地上十五メートルに掲げられた他殺死体!!  不可解極まる事件の意外な真相とは!? [#改ページ] 〈カバー〉  森ミステリィの正道  生きなくても良いのに?  殺さなくても良いのに? 「あんな高いところに、どうやって死体を上げたのでしょう?」有名マジシャン・牧村亜佐美《まきむらあさみ》の自宅敷地内で発見された他殺死体は、奇妙なことに、地上約十五メートルのポールの上に掲げられていた。被害者は、前夜ファンと牧村の会食中に消えたマネージャーだった。事件関係者の調査依頼を受けた〈探偵〉鷹知祐一郎《たかちゆういちろう》は、複雑に絡み合う人間関係の糸を解きほぐし、犯人の意図と事件の意外な真相に迫る。ますます好調Xシリーズ第三弾!!  たかいたかい  であけくれて  ひくいひくい  でてばなさず  やめてやめて  だいじょうぶ  とめてとめて  とねがっても  ひとりひとり  がさようなら  ふたりふたり  がわかれたい [#改ページ]  タカイ×タカイ [#地から1字上げ]森 博嗣 [#地から1字上げ]講談社ノベルス [#地から1字上げ]KODANSHA NOVELS [#改ページ]  目次  プロローグ  第1章 まずは虚儀に集い  第2章 しかし虚構の眺め  第3章 そして虚飾が陰り  第4章 またも虚脱を語り  第5章 やがて虚栄は崩れ  エピローグ [#改ページ] [#中央揃え]Crucifixion [#中央揃え]by [#中央揃え]MORI Hiroshi [#中央揃え]2008 [#改ページ] 登場人物  鷲津《わしづ》 伸輔《しんすけ》…………マジシャン  牧村《まきむら》 亜佐美《あさみ》………マジシャン  横川《よこかわ》 敬造《けいぞう》…………マネージャ  鈴原《すずはら》 万里子《まりこ》………ファン  三澤《みさわ》 宗佑《そうすけ》…………実業家  三澤《みさわ》 有希江《ゆきえ》………その娘  井坂《いさか》………………家政婦  朝霧《あさぎり》………………不動産屋  高木《たかぎ》………………元工務店社長  永田《ながた》 絵里子《えりこ》………芸大生  鷹知《たかち》 祐一朗《ゆういちろう》………探偵  椙田《すぎた》 泰男《やすお》…………美術品鑑定業  小川《おがわ》 令子《れいこ》…………助手  真鍋《まなべ》 瞬市《しゅんいち》…………芸大生  西之園《にしのその》 萌絵《もえ》………W大の教員  鈴木《すずき》………………刑事  竹橋《たけばし》………………刑事 [#改ページ]  彼らのひとりは、自分が手を下した動物の肉は食べることができない、と言った。また、自分の知っている牛は殺せないだろう、乳を絞ったことがあればなおさらだと、そう言った者もいる。そこでわたしは、ビカリオ兄弟が自分たちの飼っている豚を屠殺していること、そして彼らが名前で区別できるほど豚に馴染《なじ》んでいることを、想《おも》い起させた。「確かにそうだ」とひとりが答えた。「だが、いいかね、彼らは人の名ではなしに、花の名前をつけていたんだ」 [#地付き](Cro'nica de una muerte anunciada / Gabriel Garci'a Ma'rquez) [#改ページ] プロローグ [#ここから5字下げ]  彼が殺される日、白い服を着ているのを見た母親は、息子が曜日を間違えたのだと思った。「今日は月曜日だと教えてやりました」と彼女は言った。だが彼は、礼服を着たのは、ことによると司教の指輪に接吻《せっぷん》する機会があるかもしれないからだ、と説明した。 [#ここで字下げ終わり]  世にも不思議な事件が起こった。そのとおりの言葉を、どこのマスコミも使ったのには、もちろん理由がある。過去に不思議な事件と呼ばれたものが、どれもほんのちょっとした気まぐれ程度の意味しか持たなかったのに対して、この事件は一見して明らかに破格であった。この世は無数の矛盾と意味のない偶然に溢れかえっているのだから、どこを掘り返しても、幾らばかりかの不思議くらい出てきそうなものだが、今回は、掘り出したり探したりする必要さえなかったのである。ニュースキャスタは、初めて誇大な表現に後ろめたさを感じずに済んだだろうし、ワイドショーのコメンテータも、「いやあ、不思議ですね」と無理のない感想を述べれば仕事になった。言葉だけでこの表現を使ったところで、もう誰も見向きもしないほど、不思議の効用は薄れていたものの、しかしそれも、事件の内容が世に伝わるに従って、本来の効力を取り戻したのである。  大別すると、三つの不思議さがそこにはあった。  一つは、不思議さを生産することで有名な人物の館でそれが起こったことだった。ここは、テレビでも幾度か紹介されていた(その映像があったので、事件後に何度も繰り返し内部の情景が放映された)。まるでテーマ・パークのように人工的でプロフェッショナルな不思議さに彩《いろど》られた場所といっても良かった。  二つめは、当然ながら予想されるとおり、その館の主《あるじ》である有名人の関係者が、被害者であったこと(したがって、この被害者の生前の映像も多かった)。これは、ごく自然のことのように思われるが、実は逆なのである。何故なら、本来は謎を仕掛ける側の人間であると、大衆が認識していた。この種のスリルは、いつも演出に付き物だったので、当初は誰もが、きっとなにかのびっくり企画だろう、どんでん返しがあるにちがいない、と連想してしまったはずだ。  さて、三つめの理由は、その演出自体にある。館の中で発生したといっても、家の中ではなかった。屋外の、それも敷地外からもよく見える位置に、その不思議さは「展示」されていたのである。大勢が目を留め、立ち止まらずにはいられなかった。見上げながら眉を顰《ひそ》め、「何だ? あれは」と口にした者は多かった。そして、その疑問こそが、この事件の最も重要な謎の一つであることはまちがいなかった。      *  真鍋瞬市《まなべしゅんいち》がその道を通りかかったのは、そこが駅から大学へ向かう最短のコースだったからだ。時刻は午前八時半。こんなに早い時刻に大学へ近づく運動を彼がしたことは、入試や定期試験以外では珍しい。つまり、この時間の講義に、彼はほとんど出ていなかった。だが、どうしても単位が足りない。美味《おい》しいものだけ食べていたら、いつの間にか、嫌いなものばかりが皿に残っていたときみたいに、朝一番の講義ばかりを受講しなければならなくなっていた、という夢を見たこともあったのだが、現実もそれにかなり近い状況になりつつあった。餌に向かっていくタイプではなく、追い込まれて、しかたなく走り始めるタイプだと自分を分析することができる。  大通りから一本入った静かな道だが、両側に歩道があり、歩きやすい。地理的には、対角線に近い角度を貫き、近道をしているな、と感じさせる「人に優しい」道なので、大勢の学生がそこを通る。車の交通量は多くない。緩《ゆる》やかにカーブして、やや上り坂になっている。道沿いには大きな樹木が残っている土地もあり、また、長い塀が続く豪邸も多かった。店はほとんどなく、どちらかといえば、住宅地である。  大勢の人間が集まっている場所が、先に見えてきた。二十人、否、三十人はいるだろう。みんな上を見上げている。道の反対側の方を見ている。  同じクラスの永田絵里子《ながたえりこ》の顔が見えた。彼女も同じ講義に出ているのだ。真鍋は道を渡って、その人だかりに近づいた。 「おはよう」真鍋は永田に小声で言った。「どうしたの?」 「あ、おはよう」永田はこちらを向いて、一瞬だけ微笑んだものの、すぐに指を上に向ける。「あれあれ」  道の反対側には白い塀が続いていて、みんなが見ているのは、その塀の向こうにあるものだった。道を渡って近づくと、塀が邪魔で見えなくなる。だから、バックをして、離れたところから眺めていた、というわけである。道を横断したため、ようやく真鍋にもそれが見えた。 「何、あれ」という言葉がさきに出て、そのあと、自分が見ているものを分析した。  塀の中に建物は見えない。大きな樹が何本も茂っている。ゲートの近くに高いポールのようなものが立っていて、それが問題だった。ポールの直径は二十センチくらいだろうか。もっとあるかもしれない。高さはどうだろう、十五メートルほどだろうか。少なくとも二階建ての家の屋根よりはずっと高い。近くに見える大木と同じくらいの高さがあった。そして、そのポールの一番上に、黒い大きなものがある。  のっているのか、引っかかっているのか、とにかく、それは人間のように見えた。 「人形?」真鍋は呟《つぶや》くように言った。 「人間だよ」永田が言った。彼女はメガネを顔から離して、それで観察しているふうだった。ファッションではなく、本当のメガネだったのだ。 「人間だったら……、何をしているの?」真鍋は当然の疑問を口にする。  永田は答えない。  よくよく見直してみると、大人の男性に見えた。黒っぽい服装で、長袖長ズボン。髪の毛は黒い。下を向いているようだ。つまり、ポールの頂上の部分が彼の腹に当たっている。躰はくの字に折れ曲がり、頭と腕が向こう側に、両脚がこちら側に垂れ下がっていた。バランスが取れているようには見えない。頭の方へ落ちてしまわないのは、どこかに引っかかっているからだろうか。少しだけ斜めになっていて、顔の一部が見えた。さきほどから微動だにしない。風がないので揺れることもない。  ポールには、途中にステップなどはなく、単なる棒である。断面は円形だから、細長い円柱体。もしかしたら、先の方が細いかもしれない。そんなふうに見えるけれど、目の錯覚でそう見えているのかもしれなかった。おそらく、旗を掲げる目的のものではないだろうか。  しかし、そもそもこの場所は何なのだろう、と真鍋は考えた。すぐ右手にゲートがあって、今は閉まっている。車に乗ったまま入っていけるほど大きなゲートだ。そこから入れば、問題のポールのすぐ下まで行けるはずである。ポールは塀から十メートルくらい奥に立っているのだろう。 「何だと思う?」永田がきいた。自分で今、人間だよ、と言ったはずなのに。 「わからない」真鍋は正直に答える。「人間だとは思うけれど、何のつもりなのか」 「やっぱ、テレビじゃない?」永田はそう言うと、口をEの発音の形にして、白い前歯を見せた。 「テレビって?」 「どっかから撮られてるかも」彼女はそう言って、辺りを見回した。「あそことか」指をさしたのは、少し離れたところに建っているマンションだった。十階建てくらいだ。「みんなが集まってきて、どう反応するのか、試しているんじゃない?」 「悪戯《いたずら》ってこと?」真鍋はきく。 「悪戯っていうか、実験っていうか」  パトカーのサイレンが聞こえてきた。 「あらら、誰か、警察を呼んだの? うわぁ、マジでぇ」永田が息を漏らす。「大丈夫なのぉ」  携帯電話を持ち上げて見つめている人間も多い。そのポールの上のものを撮影しようとしているのだ。望遠レンズがないと、小さすぎてよく写らないだろう、と真鍋は思った。  大通りから、パトカーが一台近づいてきた。サイレンがもの凄《すご》く大きくなって、耳を覆《おお》いたくなるほどだった。  道の向こう側の歩道に寄せてパトカーが停車した。サイレンが止まって、急に静かになる。警官が二人乗っていたが、すぐに降りてきて、ゲートの近くへ駆け寄った。インターフォンを押して話をしているようだ。  また、別のサイレンも聞こえる。救急車だろうか。 「もしかして、本当?」永田が言った。 「そろそろ行かないと、講義……」真鍋は時計を見てから言った。「西洋美術史概論」 「え?」永田がこちらを振り返った。「講義?」 「うん」 「馬鹿じゃない?」 「え?」 「講義どころじゃないでしょ」 「あ、そうかな……」 「当たり前じゃん」  でも、既に二年連続で落としている単位で、今年が三回めなのだ。それは、永田絵里子も同じはず。遅刻にはけっこう厳しい先生だし、欠席なんかしたら致命傷とも思えるのだった。 「いや、でもさ、ここにいても、たぶん、面白くもなんともないと思うよ」真鍋は思っているとおり正直に説明した。「まだまだ時間がかかりそうだし」  というか、永田とはそんなに親しくもない。彼女をここに残して、自分だけ講義に出席すれば良いだけの話ではある。 「もう、しょうがないなあ。真鍋君ってさ、もしか弱虫? わかったわかった、先生に電話してあげるから」 「え? 先生って?」 「鬼の北島《きたじま》にきまってるじゃん」  北島というのは、今から出席する講義の先生の名前だ。たぶん、教授だと思う。もう六十歳くらいの老人だ。  永田は携帯を見つめて、幾つかボタンを押した。それから、それを耳に当てる。 「あ、もしもし、すみません。永田絵里子です。はい、先生……、いえ、遅刻ではありません。もうだいぶまえから、大学の手前の道にいるんです。もの凄い事件が発生して、たった今、パトカーが来たところです。聞こえませんでしたか? サイレン。救急車も来ますよ、もうすぐ。ええ、はい。サイレンです。聞こえませんでしたか? はい……。そうなんです。あとでまた詳しくご報告しますけれど、あの、講義に少しだけ遅れることになりそうです。はい、そうです。申し訳ありません。はい、大丈夫です。ええ。よろしくお願いします」彼女は電話を耳から離した。真鍋の方を見て顎《あご》を上げて、口を斜めにする。どうだ、という顔だった。 「先生と知り合いなの?」真鍋はきいた。 「まあね」 「知り合いなのに、単位が取れないわけ?」 「単位が取れないから、知り合いになったんじゃん」 「あ、そう……」凄いことを言うな、と思ったけれど、黙っていた。「まあ、でも、僕は先生の知り合いじゃないから、講義に出てくるよ。あとで、教えてね、事件のこと」 「なんだぁ、べつにいいのに、無理して出なくてもぉ」 「そんなわけにいかないよ。じゃあね」片手を上げて、彼女とは別れた。  もう一度、ポールの上を見たけれど、変わりはなかった。野次馬はいつの間にか倍の数になっている。五十人くらい集まっているかもしれない。救急車のサイレンがさらに近くなっていた。      *  真鍋は教室の一番前の席で授業を受けた。その近辺の席しか空いていなかったからだ。睡魔とのバトルだったが、なんとか一時間半を持《も》ち堪《こた》えた。講義が終わった直後に、永田絵里子が教室に入ってきて、北島教授と話をしていた。真鍋は廊下に出て歩いていたら、後ろから彼女が追いついてくる。 「間に合った間に合ったぁ」そう言って、彼女は溜息《ためいき》をつく。「なんとか、欠席にならずに済んだぞ」 「出席にしてくれるって?」 「ノートは真鍋君に見せてもらいますって、言ったから」 「いいけど、べつに、そんなに重要なこと、書いてないよ。黒板を写しただけだし、目次くらいしか書かないから、あの先生」 「やばくない?」 「何が? 試験?」 「うん。どんな勉強したらいいと思う?」 「さあ、わからない。通ったことないからね」 「そうだよねぇ」 「先生に聞けば? どんな勉強すればいいですかって」 「そんなこときけないじゃん、なれなれしく」 「さっき、わりとなれなれしかった気がするけど」  生協の食堂に入ったが、混雑していたので、少し離れたところにある喫茶店へ行くことにした。永田と二人だけで喫茶店に入るなんてことは初めてだ。というか、女の友達と二人だけ、というのも過去に一度もない。よく考えてみると、一人だけで喫茶店に入ったことも一度もない真鍋である。  一緒に並んで歩いていてわかったことだが、永田は靴のせいはあるものの、真鍋よりも背が高い。たしかに、ひょろっとしているので、長身には見えるけれど、そんなに高いとは思っていなかった。髪型はおかっぱで、楕円《だえん》形のフレームのメガネをかけている。目の下に雀斑《そばかす》があって、化粧をしているのかどうかは真鍋にはわからない。しかし、バイト先の小川令子《おがわれいこ》に教えてもらったことだが、わからないときは絶対に化粧をしている、ということなので、たぶん、永田も化粧をしているのだろう。  喫茶店で二人ともカレーライス・セットを注文した。こちらから質問するまでもなく、永田はあのあとの様子を語ってくれた。しかし、パトカーに続いて救急車が来て、そのあとさらにパトカーが数台来て、野次馬もどんどん増えて、そのうち、消防車が到着して、ゲートの中に入っていき、梯子《はしご》を伸ばしてポールの上の人物を下ろした、ということだった。救急車がそのあとすぐ出てきて、走り去ったらしい。 「まあ、それで、私も諦めたん」 「ポールの上の人を、救急車で運んでいったわけ?」 「たぶんね。でも、わかんない。だって、全部、塀の中なんだからさ」 「そうか、じゃあ、ニュースを見ないと。そのうち、テレビとかでもやるんじゃない?」 「ケータイでネットを見てみたけど、まだニュースになってないね」永田は話した。「変だよね、有名人なのに」 「有名人って?」 「え?」永田は顔を上げて、目を丸くして真鍋を見た。「もしか、知らないの?」 「知らないけど」 「あっそう。知らない人いるんだ」 「誰?」 「牧村亜佐美《まきむらあさみ》」  永田が口にした名前を真鍋は聞いたことがなかった。しかし、彼女はそこで言葉を切り、じっとこちらを見つめている。当然知っているはずの名前だ、という態度だった。少々迷ったけれど、知ったかぶりをして傷口を広げることは得策ではない。 「それ……、誰?」 「真鍋君って、どこの人?」 「ここの人だけど」 「日本人?」 「たぶん」 「そっかぁ、知らないんだぁ。あ、だから、さっさと立ち去れたわけだよ、さっき。びっくりしたもん」 「有名な人なんだね」 「そうだよ」 「何をしている人?」 「マジシャン。けっこう最近よくテレビに出てるし。うーん、なんかね、もっと有名なマジシャンの大御所みたいなのがいてさ、その人の弟子なんだよね」 「なんて名前の人?」 「え?」 「だから、その、もっと有名なマジシャンって」 「えっと、何だったっけ……、うーん」 「ほら、有名でも、知らないことってあるよ」 「嫌な切り返しするじゃん」永田は目を大きくして顎を上げた。 「そういうつもりじゃないけれど」 「ど忘れしただけだよ」 「そうか、だから、あんなに野次馬がいたのか」 「そうそう、マジシャンだからさ……、みんな、なんか、ちょっと期待してたりしたのかも」 「どんな期待?」真鍋はきいた。 「わかんないかなぁ。つまりさ、あんなところに人間をのせて、なんていうか、人が集まってきたら、なんかパフォーマンスとか見せるんじゃないかなって」 「ああ、なるほど、マジックだと思ったわけ?」 「そこまで思わなかったけど、えっと、ほら、お祭のユニフォームで、なんか、鉢巻きした人がさ、梯子の上で仰向《あおむ》けになったりして、手を叩いてさ、ほらどうだ、みたいなのするじゃない」 「出初《でぞ》め式のこと?」 「デゾメシキ? うーん、わかんないけど」 「あれは、火消しだから、消防士だよ」 「へえ、消防士さんがやってたの? 昔のことはよく知っているんだぁ」 「そういうのじゃなかったわけだね。最後まで、あの上にいた人は動かなかった?」 「うん、死んでるんじゃないかって」永田は言った。 「下ろすときは、どうだった?」 「それは、だからさ、消防車が梯子をぐいーんって伸ばして、ほら、電信柱の修理のときみたいに……。私の言っていること、わかる?」 「うん、わかるけど。そのときも、その人、動かなかった? 人間だったの?」 「もちろん人間だよ。動かなかったけど」 「誰だったの?」 「そんなことわからないじゃん」 「知らない人?」 「私が? 知ってるわけないし。だいいち、顔なんてよく見えないもん。高かったでしょう? 目、悪いし」 「えっと、つまり、その、有名なマジシャンじゃなかったわけ?」 「どっちの?」 「あれ? 男だったよね。だったら、その有名な、えっとマキムラだったっけ?」 「牧村亜佐美」 「その人じゃないわけだ」 「そりゃあ、違うでしょ。ありえないじゃん」 「もっと有名なマジシャンでもなかった?」 「ああ……、そういうこと。えっと、どうかな。たしか、仮面しているんだよ」 「仮面? マジシャンが?」 「そうそうそうそう」 「あ、だから素顔は誰も知らないんだ。その人だったかもしれないわけだね」 「ま、そこらへんは、さすがにニュースで言うでしょ」 「うん、そうだね」  テーブルにカレーライスが二つ到着した。二人はスプーンを手に取った。 「だけど、凄いよねぇ。もし死んでいたとしたら」永田が身を乗り出し、息を殺して言った。「何なんだって、こと」 「そうだね」真鍋は頷《うなず》き、カレーライスを一口食べる。「カレーって一口めが美味しいよね」  永田が顔を上げてまた目を丸くする。 「どうして?」彼女がきいた。 「だって、一口めって、まだ口がカレーを知らないというか、忘れている状態だから、準備ができてなくて、なんていうか、未踏の地へ踏み込んでいくみたいじゃない」 「凄いこと言う」ますます目を丸くし、永田は一度|瞬《またた》いた。「それで、どうしたの?」 「え? べつに……」 「それだけ?」 「変?」真鍋も気づいてきいた。 「絶対変。突然。そんな話してないでしょ? 殺人事件の話じゃん、今は」 「あれ? 殺人事件なの? 殺されたの?」 「そりゃあ、そうでしょ。きまってるじゃん」 「どうして?」 「え、だってさ、ほかに何がありえる?」 「他殺じゃないもの」真鍋は答える。カレーをまた一口。「うーん、病死、自殺、事故死」 「病死はないでしょ」 「まあ、事故死かな」 「どんな事故? ねえ、どんなどんな?」 「ポールの点検をするために、あそこへ上がっていたとき、雷に打たれたとか」 「雷って……、晴れてたじゃん」 「たとえばの話だよ」 「しないでよ、たとえばの話なんか」 「ごめんごめん」 「ほかは?」 「うーん、あそこで、ショーの練習をしていたとか」 「ショー? あ、わかった。えっと、デベソ式?」 「デベソ式じゃないよ、出初め式」真鍋は、そこで水を飲んだ。「けっこう辛《から》いね」 「え? 何が?」 「カレー」 「カレーのことについて、私、きいてないでしょ? ショーって、ああ、つまりマジックのショーね? 練習をあんなところでしていたって言いたいわけ?」 「言いたくはないけど、まあ、たとえばの話」 「だから、たとえばの話はなしだってば」永田はそこでぷっと吹き出した。「面白いね、真鍋君って。知らなかった。発見だわ」 「発見?」 「うん、真面目《まじめ》で暗い奴だと思ってた」 「ふうん」真鍋は頷く。まあ、そのとおりだとも思えたので、反論はしなかった。「あれこれ考えるより、ニュースを見たらわかるよね」 「そうそう。私、考えてないもんね」  永田はくすくすと笑いながら、カレーを食べた。真鍋も食べることに専念する。ただ、ときどき対面の彼女をちらりと見た。こんなに沢山会話をするのは初めてだった。もっとつんと澄ましたお金持ちのお嬢様、といった感じだと想像していたのだが、話してみるとわりと気さくな感じではある。 「私ね、マジックショーのアシスタントのバイトしたことがあるよ」 「へえ。誰の? どこで?」 「うんとね、さほど有名じゃない人だった。デパートで子供相手のショーとかしてて」 「バイト、どこで募集があったの?」 「モデルの事務所に登録してるから、ときどき、そういうところへ派遣されるわけ」 「へえ。モデル? 何のモデル?」 「それは、まあ、いろいろだね」 「面白かった?」 「面白かったよう。半分くらい手品の種とか、わかっちゃったし」 「へえ、それはちょっと凄いね」真鍋は顔を上げた。 「凄いでしょ?」 「半分しかわからなかったの?」  永田が急にむっとした顔になった。信号機のように判別しやすい顔である。 「何の話だっけ……、そうそう、そのときね、牧村亜佐美を見たことあって、控え室みたいなとこでね。もうねぇ、なんていうか、ほら、ちょっとお高くとまっているって感じ? 威張ってるってわけでもないけど。でも、何人かメイクさんとか、マネージャさんかな、付き人がいてね、その人たちにすっごい命令口調でしゃべってた。何のつもり、これ、みたいなふう」顔をしかめて、手をさっと振って、永田はその場の雰囲気を演技で示した。もしかしたら、モデルよりも女優に向いているんじゃないか、と彼女を見て真鍋は思った。      *  同じ日の夕方には、この事件のニュースは全国に広がった。牧村亜佐美の住宅内で、彼女のマネージャである横川敬造《よこかわけいぞう》・三十五歳が殺害されているのが発見された。地上約十五メートルのポールの上に、横川の死体は掲げられていたのである。 [#改ページ] 第1章 まずは虚儀に集い [#ここから5字下げ] その微笑の中に、アンヘラ・ビカリオは生れて初めて、ありのままの母を見た。それは娘の欠点をただひたすら讃美《さんび》してきた哀れな女だった。「くそっ!」と彼女は独り言を言った。あんまり気が転倒した彼女は、帰りの道中ずっと声高らかに歌をうたい続け、その後ベッドに倒れ込むと三日三晩泣き通したのだった。 [#ここで字下げ終わり]      1  小川令子は、午前十時に事務所に到着した。鍵が開いていたので、真鍋瞬市が来ていることがわかった。ドアを開けて入ると、彼はソファで新聞を広げていて、これも直前に予想したとおりの光景だった。 「おはよう。新聞買ってきたの?」彼女はバッグを自分の席に置いて言った。「牧村亜佐美の事件でしょう? あれって、真鍋君の大学の近くだよね」 「実物を見ちゃいましたよ」真鍋が新聞を下ろして言った。 「実物って? ああ、屋敷のこと?」 「違いますよ。死体を見たんです」 「うっそぉ! え、どうして?」彼女はソファの方へ移動し、真鍋の対面に腰掛けた。「でも、朝だったじゃない」 「あの前の道、いつも歩いてるんですよ」 「いつもって……、滅多《めった》に大学なんか行かないくせに」 「一限目の講義のために、ちょうど通りかかったら、野次馬がいっぱいいて」 「本当に……。写真とか撮った?」 「あ、いえ。みんなは撮ってましたけどね」 「撮ったら良かったのに。マスコミに売れたのに」 「駄目だと思いますよ。僕の画像が小さいから」  小川の知っている範囲では、殺人現場が、マジシャンで売れっ子タレント・牧村亜佐美の邸宅の敷地内であったこと、被害者が牧村のマネージャだったこと、そして、死因については、刃物による刺殺だったこと、などがまず報道されたが、その後、テレビで話題になっているのは、どうしてポールの頂上といった高い場所に死体が置かれていたのか、という点である。これについては是非とも真鍋の見解が聞きたい、という欲求が彼女に湧き起こっていた。彼と話をすると、意外な発想が飛び出してくる。真偽のほどはともかく、それだけで単純に面白いからだ。真鍋は昨日事務所へは来なかった。小川は、自分が今日を楽しみにしていたことを、彼の顔を見た瞬間に自覚した。 「今朝の新聞には、被害者が刺殺されて、発見されたときには既に死亡していたと書いてありました」真鍋が淡々とした口調で話した。「病院で死んだんじゃないんですね」 「そりゃあだって、場所が場所でしょう? そんなところでまだ生きているっていうふうには、考えられないんじゃない?」 「いやぁ、そうでもないですよ。なんか、初め見たとき、高いところから落ちてきて、ポールに突き刺さったのかなって思ったんですけどね」 「うわぁ、いきなり?」小川は仰《の》け反《ぞ》った。どういうわけか笑ってしまった。「凄いな、それ。そんなふうに見えた?」 「ええ、見えましたよ。まさに突き刺さっている感じなんですよ。串刺しっていうか」 「串刺し……」笑っていた顔が歪《ゆが》んでしまう。「気持ち悪いなあ、それ」 「いや、違いますね。串刺しだったら、もっと躰の線に沿って刺しますね。それよりも、えっと……、あ、そうそう、スーパの試食でもらえるソーセージみたいな感じですよ」 「ちょっとさ、喩《たと》え方が間違ってない?」 「絵に描きましょうか?」 「あ、描いて描いて」小川は腰を上げて、デスクから紙とサインペンを取った。テーブルにそれらを置いて、彼の方へ差し出す。  真鍋はテーブルに前のめりになり、絵を描いた。小さな絵だった。手前に塀があって、奥にポールが見えて、そこに小さく人間が下を向いて乗っている。突き上げられたような姿勢だった。 「小さい絵だね」小川は言った。「美大生でしょう? もっとさ、大きく写実的に描いてよ」 「いえ、見た感じをそのまま描くのが写実。近くで観察したわけじゃありませんから。これでも、かなり望遠レンズになっていますね」 「たしかに、お腹にポールが突き刺さっているみたいに見えるかもね。そのポール、てっぺんはどんなふうなの? 尖《とが》っているわけ?」 「いえ、尖っていたら、本当に突き刺さると思います。丸いのが付いてるんじゃないですか、先っぽに」 「見てないの?」 「見ていませんよ。だって、死体があったから」 「下ろすところは? どうやって下ろしたの?」 「消防の梯子車が来たみたいです。僕は見ていません。だって、講義があったから。遅刻したら、また単位を落として留年ですからね」 「あ、偉いじゃん」 「でも、友達が一人、見ていたんで、それで消防車のことは聞いたんですよ。警察がまず来て、救急車も来て、消防車が死体を下ろして、救急車で運んでったそうですけど」 「そのあと、ポールを見てないの?」 「ああ、えっと、帰りは違う方へ行ったんで……。今度、見ておきますよ」 「あのさ、どうやって、そんな先っぽに固定されていたの?」 「死体がですか? ええ、それ、僕も気になります。不思議ですよね。刺さっていないとしたら、不安定だよなって」 「だいいち、どうやって、そこまで死体を持ち上げたの? そこまで上がっていくだけで大変じゃない」 「まあ、梯子車が一台あれば、わりと簡単ですよ」真鍋は言った。「そんなことよりも問題は、何の意味があるのかっていう方じゃないかなあ。不思議じゃないですか?」 「でもね、梯子車を一台なんて簡単に言うけど、普通の人には用意できないでしょう? やっぱり方法が不思議だってば」小川は反論する。「理由なんて、全然不思議でもなんでもないよ。目立ちたいからやったっていうだけでしょう」 「小川さんこそ簡単に言いますね」真鍋が微笑んだ。少し横目に近い角度でこちらを見ていた。「無理もないですけど。あそこがマジシャンの家だから、そう考えたわけでしょう?」 「あ、そうそう、もちろん、それはあるよ」小川は頷く。 「ということは、あの家の主が犯人ってことですか?」 「牧村亜佐美ねぇ、うん、まあ、どうしても、そう考えちゃうわよね」 「自分が殺人犯ですっていうデモンストレーションをしたわけですか?」 「そこまでは言わないけどさ。まあ、なんとなく、それくらいしそうじゃない」 「しないですよ、そんな馬鹿なこと」 「人気タレントなら、そんな自分が疑われるような真似は絶対にしない、というのを逆手《さかて》に取ったのかなって」小川は言った。「ありえないかな?」 「逆手に取っても、なんの得もありませんからね」 「うーん、だとすると、誰かが彼女を陥《おとしい》れようとしたのか。いかにもマジシャンがやりそうな派手な手口だと見せかけて殺したわけね」 「その犯人は、あのマネージャを殺すことが目的じゃなかったんですか?」 「いえ、もちろんそれが第一の目的だけれど、ついでに、牧村亜佐美も困らせてやろうと」 「バレバレですね、そんなことしたら」 「だけど、恐いなあ。意味のないことをされるのって。確実に恐怖を与えると思うの。何を考えているのかわからないって、本当恐いでしょう?」 「ええ、そういう恐怖を演出したのだったら、わからないでもないですけど」 「なんか、やっぱり見せしめっぽくない? 磔《はりつけ》のような」 「ハリツケ? ああ、キリストみたいな?」 「そうそう。あ、そうかぁ、なにか宗教的な意味合いがあるのかもしれないね」 「そういえば、頭は北を向いていましたね」 「は? 方角が関係があるの?」 「磁石みたいな。人間自体が磁石の針だったら、頭は北です」 「意味わからない、それ」 「意味はないです」  小川は立ち上がって、お茶を淹《い》れることにした。 「あぁあ、こういう事件を捜査してみたいよね」彼女は呟くように言った。 「こういうって、どういう事件です?」真鍋が尋ねる。 「世間に注目されている事件っていうか」 「それだったら、佐竹《さたけ》さんのところのも、それに、このまえの切り裂き魔も、そうだったじゃないですか」 「間違い。注目されているっていうのがね、ちょっと違うわけよ。えっと、もっとなんていうか。そう、ミステリィよ。不思議が大きくて、派手な感じ」 「うーん、よくわかりませんけど、評価のポイントが」 「どろどろしていなくて」 「してると思いますよ、きっと、調べだしたら」 「そうかそうか。塀の外から眺めているから、綺麗なところだけ見えるんだ」小川は頷いた。 「綺麗だとは、思わなかったけど」  真鍋の言うとおりだ、と小川は思った。無責任な立場にいるからこそ、クイズのように気軽に取り組めるのである。 「ねえ、あとで見にいこうか?」彼女は提案する。「どうせ、今日も暇なんだし」 「えぇえっ、あんまり行きたくないですけど、僕」 「なんで?」 「大学に近づくと、どうも憂鬱になって」 「あ、わかるわかる。エネルギィを吸い取られるんでしょう?」 「いえ、そんなふうじゃないですけど」 「そうか。君の大学も一度見てみたいな。おお、そうだね」 「見てもなにもありませんよ。小川さん、僕の保護者ですか?」 「保護者? なんか、微妙に引っかかるけど、それ」      2  午前中は事務所で留守番をして、お昼の食事を兼ねて、二人は出かけることにした。事務所のボスである椙田《すぎた》に電話で連絡しようと思ったが、生憎《あいにく》つながらなかった。  地下鉄に乗り、私鉄に乗り換え、真鍋の大学のある郊外へ向かった。日差しが強く、思わず片手で紫外線を遮《さえぎ》りたくなる。空は宇宙のように晴れ渡っていた。 「ここ、昔、来たことある」小川は歩きながら言う。「いつだったかなぁ」 「昔っていうのは、どうかと思いますよ」横を歩いている真鍋が淡々とした口調で言った。 「ああ、そうね……。そうかそうか」小川は素直に頷く。 「二十年くらいまえですか?」 「違う違う。せいぜい十年くらいかしら。まだ、駈け出しだった頃ね」 「駈け出し」オーバに真鍋が言葉を繰り返す。 「可笑《おか》しい?」 「いえ……。そうか、走り始めたばかり、という意味ですね。僕なんか、小川さんに比べたら、常に駈け出しですね。出来立ての蕎麦は、駈け出し蕎麦《そば》ですね」 「あ、あそこね」小川はそちらを見る。  カーブした道に沿って白い塀が見えてきた。現場はそこだとわかったのは、パトカーや紺色のバンが道沿いに数台駐車され、警官がゲートの前に立っていたからだ。また、道の反対側の歩道には、カメラの三脚を並べ、取材関係の人間たちが陣取っていた。十人以上いる。どちら側の歩道も通りにくい雰囲気で、車道に出て歩く通行人もいた。幸い、自動車は滅多に通らない。  二人はとりあえず、何食わぬ顔で警官の立っている側を通りすぎた。沢山のカメラが自分たちの方へレンズを向けていたが、もちろん誰もカメラには触れなかった。 「誰か一人くらいさ、私たちを撮っても良さそうなものなのに」彼女は真鍋に囁《ささや》いた。 「え、どうしてですか?」 「ん? なんか、ちょっとね。まったく注目されていないのね」 「当たり前じゃないですか」真鍋は首を傾《かし》げている。  行きすぎたところで、道路を渡った。そこに喫茶店があったからだ。 「ここ、入ったことある?」小川は真鍋に尋ねた。 「いえ、一度も」 「そう。大学のそばなのに?」 「ここで食べるなら、大学の中の方が近いし、安いし……。まあ、生協でも高いですけどね」 「友達と、コーヒーとか飲んだりしない?」 「高いですからね」 「そう……、可哀相《かわいそう》だから、お姉さんが奢《おご》ってあげるわ」 「ありがとうございます」真鍋はにっこりと笑って頭を下げた。  カウベルが鳴るドアを押して入り、窓際《まどぎわ》のテーブルについた。店は客が多かったけれど、ちょうどそのテーブルの客が席を立ったところだったのだ。テーブルに残っていたグラスや皿を店員が片づけにきた。メニューを見て、二人ともランチのセットを注文した。カントリィな雰囲気で、それらしい古い曲が控えめな音量で流れている。小川は店の奥にあるスピーカに目をやった。デッキやアンプは見えない。まあまあのサウンドだった。  窓の外を眺める。距離にして三十メートルほどのところに、問題のポールが見えた。今は、特に梯子がかかっているわけでもない。もちろん旗も掲げられていなかった。 「やっぱり、丸いですね」真鍋が言う。  ポールの一番先の部分の形状のことだ。球体がトップにのっている。ポールも球も銀色に塗装されているように見える。 「ワイドショーのレポータとか、きっと来ますよね」真鍋が言った。「僕、実は知らなかったんですけど、その牧村亜佐美という人、人気があるんですか?」 「うーん、どうかなぁ。私もあまりよくは知らない。マジシャンとはいっても、まあ、一芸のあるアイドルタレントってところね」 「一芸のある、ですか」 「普通無芸じゃない。単に若いだけ、ちょっと一時的に可愛いだけ、みたいな」 「はあ、まあ、そうですね。小川さん、辛辣《しんらつ》ですね」 「あんなに高いのかぁ……」小川はポールを見た。ここから見てもかなりの角度だった。「自殺するのだって大変だよね」 「そういえば、ずっとまえに、高い樹の上で自殺するのが流行《はや》ったことがありましたね」 「ああ、あったね。あれって、結局、何だったの?」小川は首を傾げる。そういう報道があったが、事の顛末《てんまつ》については聞いた記憶がない。 「いえ、知りません」真鍋は首をふった。「単に、えっと、流行りだったってことじゃないですか?」 「だけど、今回のは明らかに他殺なんだから。殺された人が自分であそこまで上ったわけじゃなくて、うん、つまりそうなると、一緒にあそこへ上っていって、あの場で刺し殺したのか、それとも刺し殺してから、死体をあそこへ運び上げたかの、いずれかでしょう?」 「もう一つ可能性がありますよ」 「え、どんな?」 「被害者一人をあそこへ上らせておいて、犯人はポールの下から、長〜い槍みたいなもので突いたんです」 「もの凄い長い槍」 「ええ。ありえないくらい長い槍です」 「そんなことしたらさ、普通、落ちてこない?」 「そうですか? 被害者にしてみたら、落ちたらもうお終《しま》いですからね、なんとか、必死になって、てっぺんに留まろうとしませんかね」 「うーん」小川は腕を組んだ。「こんな議論をして、なにか意味があるかしら」  真鍋は微笑んだ。可笑しかったようだ。  ランチセットがテーブルに運ばれてきたので、二人はそれを食べる。小川の席は、顔を上げるだけで、牧村亜佐美邸のゲートが見えた。真鍋はときどき振り返ってそちらを眺めた。車の出入りが一度だけあり、ワゴン車が中から出てきて、道路を走り去った。このとき、フラッシュが光るのがわかった。車内の人物を撮ろうとしたのだろうか。 「牧村亜佐美を撮ろうとしているんだね」小川は呟いた。 「中にいるんでしょうか?」 「さあ……、でも、レポータは彼女のコメントを欲しがっていると思うな。事件のことなんかよりも、そちらの方に興味があるんじゃない? 死んだの、彼女のマネージャなんだから。もしかしたら、牧村亜佐美が犯人かもしれないじゃない。その可能性があると匂わすだけで、視聴率アップまちがいなしだもの」 「綺麗な人ですか? 僕、顔も知らないから」 「新聞に出ていたじゃない」 「あんな小さな写真じゃ、わかりませんよ」 「こういうときに、あそこのインターフォンを鳴らしてね、SYリサーチの者ですが、お困りのことはございませんか、みたいに訪ねていくくらいの商魂があっても良いのかもねぇ」 「それ、押し売りですよ」 「いえ、だって、料金が出来高払いなら、文句はないでしょう?」 「デキダカ払いって、何ですか?」 「結果が出た分だけ、料金を請求するの」 「犯人を捕まえたら百万円、みたいな?」 「百万円じゃ安いわよ」 「でも、警察だったら、ただじゃないですか」 「そこはね、うーん、つまり、牧村亜佐美くらいになると、警察には言えないような事情があるわけよ。スキャンダルになるかもしれないでしょう? そういうプライベートなところへ、ぐっとねじ込んでいくわけだ」 「なるほどぉ、商魂|逞《たくま》しいですね」 「だいたいね、あの鷲津伸輔《わしづしんすけ》との仲がもう怪しい」 「ワシズ?」 「鷲津伸輔。知らない? 奇術界の大御所だよ」 「奇術界っていうのを知りませんから」 「牧村亜佐美なんか、絶対にそういう関係で、のし上がってきたんだと思うなぁ」 「へえ、そういうもんなんですか」 「いえ、よくは知らないけど」 「知らないのに、凄いこと言いますね」  たしかにそうだ、と小川も思った。こういった感覚で、有名人に対しては、ごく普通に大衆は想像を巡らしてしまう。半虚構の別世界なので、無責任になんでも言えるのだ。考えてみたら非常に失礼な話ではある。  サラダをフォークで口へ運んだとき、窓の外へ目をやると、牧村邸のゲートから、小川の知っている顔が現れた。 「あ」びっくりして、身を乗り出した。  真鍋も振り返ってそちらを見る。  若い女性だ。真っ白のスーツ。ブーツも白い。カメラのフラッシュが光るのがわかった。その直前に、彼女は片手に持っていたハンドバッグを機敏に持ち上げて顔を隠した。顔を写真に撮られないようにしたのだ。  その彼女が一人で道路を渡って、こちらへ近づいてきた。 「あ、あれが、牧村亜佐美ですか?」真鍋がきいた。 「違う」小川は返答する。 「え、誰ですか? 芸能人でしょう?」 「ちょっと待っててね」小川は立ち上がっていた。      3  喫茶店から飛び出して、小川は、白いスーツの彼女のところへ駆け寄った。 「あら、奇遇ですね」西之園《にしのその》はすぐに小川に気づいた。 「こんにちは」小川は頭を下げる。 「こんにちは」 「あのぉ、これから、どちらへ?」 「いえ、タクシーを拾おうと思って……。でも、大通りに出た方が良さそうですね」  西之園は振り返って、カメラマンたちの方を見た。こちらへレンズを向けていないか、と確認したのかもしれない。取材陣は、既にこの美人からは興味を失っているようだった。 「牧村さんとお知り合いなのですか?」小川は尋ねる。 「うーん。どうしてお尋ねになるのかしら」西之園は微笑んだままの表情できき返した。 「あ、いえ、単に興味本位です。不思議な事件があったので、ここまで見にきたんです。私の友達が昨日、ここを通りかかって、ポールの上の死体を目撃したって言うので、ええ、わざわざここまで見にきたというわけです。今、そこで……」小川は喫茶店の窓を示した。  ガラスの中で真鍋が片手を顔の横で広げてふっている。脳天気な顔だった。お辞儀くらいしたらどうなのだ、と言ってやりたい。 「彼も、探偵社の方?」西之園がきいた。 「いえ、あの子はバイトです。社員は、社長のほかには、私一人だけなんです」小川は早口で話す。「あの、もしお急ぎでなかったら、コーヒーくらいご馳走させていただけませんか? このまえのお礼に、というわけではありませんけれど」  西之園は腕時計を見た。 「少しだけなら大丈夫です」彼女は頷いた。  西之園を連れて、喫茶店に戻る。真鍋の隣に小川は座り直し、テーブルの上のものも移動させた。そして、対面に西之園が腰掛けた。ウェイトレスが注文を取りにきて、西之園はホットコーヒーを頼んだ。 「お食事をされては?」小川が途中で尋ねたが、 「いえ……」と西之園は片手を軽く持ち上げて断った。  ウェイトレスがコーヒーを運んでくるまでに、真鍋の紹介をし、また、真鍋にも西之園との関係を説明した。このまえの事件のときに彼女に助けてもらったのだ。その話はもちろん真鍋も知っているところである。彼は緊張して背筋を伸ばしている。いつもがどれくらいリラックスしているかがわかった。 「秘密ですか?」小川は尋ねた。 「どうして私がここへ来たのか?」西之園は即座に口にする。それから、コーヒーカップをゆっくりと両手で持ち上げた。 「ええ。もし差し支えなければ……」 「秘密です」彼女は微笑む。しかし、カップをテーブルに戻した。口をつけていなかった。香りを確かめただけかもしれない。「ですから、他言なさらないように」 「はい、もちろんです」 「牧村亜佐美さんとは面識はありません」西之園は話した。歯切れの良い口調で滑《なめ》らかに続く。「ただ、警察の方から呼ばれてきました。私に見てほしいということでしたので」 「どうして、西之園先生に?」 「さあ」西之園は小首を傾げた。そして、口もとを僅《わず》かに緩める。「以前に那古野《なごの》で、高い場所で首吊りをする連続事件が起こりました。ご存じですか?」 「はいはい、ええ」小川は頷く。真鍋とも話していたことだ。 「あのとき、私、少しだけ事件のことに関わったのです。偶然なのですけれど」 「そうなんですか。あちらに、その、那古野にいらっしゃったのですか?」 「ええ」 「あの事件、結局、どんな解決を見たのですか? あまり、詳しく報道されていませんよね」 「そう……」西之園は小さく頷き、窓の外へ視線を向ける。小川もつられてそちらを振り返ったが、特に牧村邸のゲートに変わったことはなかった。「あれは、基本的に、自殺でしたので」  西之園の視線が上へ向く。ポールの頂上を見ているようだ。 「今回は他殺ですね」小川は言った。「あんな高いところに、どうやって死体を上げたのでしょう?」 「わかりません」 「というか、何故、そんなことをしたのか、ですね、問題は」 「そうですね」西之園は小川に視線を戻し、微笑んだまま頷いた。 「つまり、那古野事件との関連があると、警察は見ているのですか? 西之園先生は、それについて意見を求められた、ということでしょうか?」 「後者のご質問は、そうです」西之園は頷いた。「前者については」彼女は首をふる。「私にはわかりません」 「事件にご興味をお持ちですか?」小川はさらに尋ねる。 「うーん」西之園は口を結んだが、少しだけ笑ったような形を残していた。「どうかしら。興味はありますけれど、でも、関わっているような時間は、今の私にはありません」 「お忙しいのですね」 「ええ、就職したばかりですから、いろいろと」 「もし、よろしければ、私が調べて、そのご報告をしましょうか?」小川は思いついて提案した。「あ、あの、もちろん、無料です」  西之園はふっと息を漏らした。提案が可笑しかったのだろうか。そして、またカップを両手で持ち上げ、今度は口をつけた。 「今のところ、特に仕事がないので、簡単な調査くらいならば、できると思います」小川はつけ加える。 「あ、あの……」真鍋が胸のポケットから折り畳んだ紙切れを取り出し、それを広げてテーブルに置いた。「こんなふうだったんです」  さきほど彼が描いたスケッチである。こんなときに出すようなものか、と小川は思ったけれど、西之園はそれに視線を落とし、じっと見入っていた。 「よくわかる」西之園は顔を上げて真鍋を見た。「とても参考になりました。どうもありがとう。でも、死体を下ろすまえの写真は、警察から見せていただいたので」 「それは、そうですよね。当たり前ですよね」小川は笑って言う。「ちょっと、この子、ぼやけているんですよ」 「それでは、情報交換で、一つだけ」西之園は言った。「死亡推定時刻は、前日の午後十一時から当日の午前一時の間だそうです。いつからポールの上にあったのかはわかりませんが、おそらく、殺されて数時間後にはあそこにのせられたようです。ポールの下には、血痕が残っていません。あの場所で殺されたのではない、と考えられます。まだ詳しいことはわかりませんけれど」 「どうやって、あそこに固定されていたのですか?」真鍋が質問した。「あ、あの、もしきいても良いなら、ですけど……」 「ポールの頂上近くにフックがあって、そこにベルトが引っかかっていたそうです」西之園は答えた。そして、指を一本立てて見せた。「質問は一回だけ」  真鍋は無言で頭を下げ、引き下がった。 「抽象的ですけれど、どんな感触でしょうか?」代わって、小川は質問した。「その、解決しそうですか?」 「わかりません」西之園は首をふった。「どうかしら……。でも、そうですね。子供をあやすおもちゃみたい」 「は?」小川は身を乗り出した。「おもちゃ?」 「私、もう失礼しないと。午後に実験がありますので」西之園は立ち上がった。「コーヒー代、本当によろしいの?」 「あ、はい。もちろんです」小川は立ち上がった。  西之園は店から出ていった。歩道を行く姿もすぐに見えなくなった。 「綺麗な人ですねぇ」真鍋が溜息をつく。 「そう言うと思った」小川は反対側のシートに移動した。 「コーヒー、全然飲まれなかったじゃないですか」真鍋が指摘する。  西之園のカップのことだ。たしかに、まったく減っていない。 「僕、あと飲んじゃおうかな」真鍋が笑いながら言った。 「うっわ」小川は顔をしかめる。 「冗談ですよ」 「冗談でも、言わないの」 「でも、なんか綺麗じゃないですか」 「ほう……」小川は目を細めた。「私のカップなら飲める?」 「まあ、そういう比較問題はやめておきましょう。不毛な議論になりますからね」 「君が不毛だと思うぞ、私は」 「だから、冗談ですって。言わなきゃ良かった」  二人ともランチが途中だったので、続きを食べた。すっかり冷えていた。たぶん、西之園が残していったコーヒーが、テーブルの上では一番温かいのではないか。 「凄いお金持ちなんですね、きっと」しばらくして、真鍋が独り言のように呟いた。 「え、西之園さんのこと?」 「ええ、僕が見ても、わかるくらい。なんか、しゃべり方とか、仕草が、めちゃくちゃハイソサイティでしたから」 「うん、セレブよね。普通だとさ、身に着けているものとか、ブランドもので、あ、だいたいいくらくらいの着てるなってわかるんだけど、彼女の場合、全然わからない」 「ユニクロじゃないですよね」 「ブランドだとは思うけれど、見たことないし。かろうじて、そうかなって思ったのは、時計だけね」 「ふうん、小川さん、凄いですね」 「ま、仕事柄」小川は微笑んだ。「でも、彼女がどうして、警察に呼ばれたのかは、今ひとつ理解できなかった。椙田さんにきいてみたら、教えてもらえそう」 「え、どうしてですか?」 「ん? まあ、それはまたあとで……」      4  椙田にはすぐに電話をかけたが、彼は出なかった。そこで伝言を残しておいた。その日の夜になって、彼から電話がかかってきた。小川は自分の部屋で夕食も済ませ、シャワーを浴び、ソファの上で横になり、リモコンをテレビに向けているときだった。 「もしもし、悪い、遅くなって」椙田の低い声だ。 「あ、こちらこそ、すみません」彼女は起き上がって、座り直す。「また、かけ直そうと思っていました」 「何? えっと、マジシャンの家の事件のことって」 「はい、あの……、牧村亜佐美って、ご存じですか?」 「ああ、知っているよ。家に一度行ったことがある」 「え? 本当ですか?」 「うん、美術品のことでね。向こうは覚えちゃいないと思うけど」 「いつ頃のことですか?」 「一昨年《おととし》の夏だったかな」 「そうだったんですか」 「彼女の家で事件があったわけ?」 「そうです」  椙田がニュースを見ていないようだったので、小川は、牧村亜佐美邸で起こった事件について簡単に説明した。 「それで、そこの近くの喫茶店で、真鍋君とランチを食べていたんです」 「話が飛ぶね」椙田は笑ったようだ。「ま、良いけど」 「はい、そうしたら、その家から、W大の西之園先生が出てきたんです」 「え?」 「西之園先生です。椙田さん、ご存じですよね?」  返事がない。三秒ほど沈黙が続く。 「もしもし?」 「ああ」 「聞こえますか?」 「うん、聞いているよ」 「西之園先生には、先日の電車の事件で助けていただいたので、私のことを覚えていて下さったんです。それで、少しお話をしました。牧村邸へは、警察に呼ばれてきたそうです。なんでも、那古野であった連続首吊り事件に関連があるのではないか、ということで……」 「僕の名前、出さなかっただろうね?」 「え? あ、はい、そんな話はしておりません」 「うん、絶対に出さないように」 「西之園先生にですね? ええ、それは心得ております。椙田さん、あのときも、お隠れになっていましたから」 「そのとおり」 「お尋ねしたいのはですね、彼女がどうして警察に呼ばれたりしたのか、ということです。犯罪が専門というわけでもありませんよね? 警察とは、どういった関係なのでしょうか?」 「那古野では、警察と密接な関係があった。彼女の叔父が、愛知県警の本部長だったこともある。今は、彼も東京に戻ってきている。それから、彼女の叔母は、現職の愛知県知事の夫人だ。あと、亡くなっているが、彼女の父親はN大学の総長だった。まだまだあるが、とにかく、そういう一族だ」 「そうなんですか。名家なのですね。首吊りの事件は、あれ、どんな結末だったか、ご存じですか?」 「いや、知らない。単に、そういう自殺が流行っただけなんじゃないかな。想像だけれど、そのとき、まだ彼女は名古屋にいたから、警察の捜査に関わっていたんだろうね。それで、こちらでも参考に呼ばれたというわけだ」 「なるほど……」 「とにかく、僕の名前を出さないように。絶対に」 「その理由はおききできないですね?」 「天敵だと思ってもらえば良い」 「天敵ですか……、椙田さんの個人的な天敵なんですか?」 「そうだ。もし僕のことを彼女が知ったら、僕はもう日本にはいられない」 「え、そんな、またオーバな」 「くれぐれも、頼んだよ。それに、あまり彼女に接近しない方が良いな」 「それは、どうしてですか?」 「なんというのか、危険な微粒子が漂っている」 「はあ……。微粒子? 漂っている……」 「毒ガスみたいなイメージだ」 「あ、ああ、なるほど」 「それだけ?」 「あ、はい、ええ、それだけです」 「真鍋も一緒だったの? 西之園さんと会ったとき」 「はい、そうです」 「真鍋にも口止めしておく方が良いな」 「もう、会うことはないとは思いますけれど」 「わかった。任せる」 「はい。気をつけます。では……」 「じゃ、また」  電話が切れた。小川は溜息をついた。立ち上がって、冷蔵庫に飲みものを取りにいく。軽いアルコールのカクテルがあったので、その缶を開けて、グラスに注いだ。立ったまま一口。それから、グラスを持ってソファへ戻った。  椙田と西之園の関係は、かなり根深いもののようだ。名前を言うだけで駄目だというのは、つまり、ここに椙田がいることを知られたくない、という意味だろう。過去の関係が苦い結末になった、といった程度の感じではない。もっと大事に聞こえる。何だろう? 見つかったら仕返しをされる、仇《かたき》のようなものか。可笑しいような気もするし、笑えないような気もする。よくわからない。ただ、椙田は真剣だった。自分としては、椙田の指示どおりにする以外にないだろう。なんとなく、もやもやするけれど、まだ椙田と自分の距離は遠いな、ということは確かだった。      5  事件から一週間が経過した。真鍋瞬市は、先週と同じ時刻に、同じ道を通った。同じ講義に出るためだ。事件の三日後にもここを通ったが、取材のカメラマンがいた。でも、今日はもういないだろう、と真鍋は予想した。テレビでは、牧村亜佐美がマイクを突きつけられている映像が流れていた。自分はなにも知らない、当惑している、というコメントだけだったが、それが得られたことで取材陣は目的を果たして立ち去ったのではないか、と想像した。屋敷は敷地が広く、警察関係の車はゲートの中に入ってしまう。外にいても中の様子がわからず、写真が撮れない、といった条件もあるだろう。  そういえば、あるテレビでは、牧村邸の様子を空中から撮影していた。ヘリコプタを飛ばしたのだ。そんなことをしなくても、近くの高層マンションの部屋から撮れそうな気もするが、きっと許可が取れなかったのだろう。ああいうのは、盗撮にはならないものか、と真鍋は不思議に思った。牧村亜佐美については、テレビ報道でだいたいどんな人物かがわかった。だが、事件の本筋に関しては新しい情報はなにもない。警察は全力をあげて捜査を続けているようだ、という言葉だけである。  牧村亜佐美の家に近づく。道がカーブしているので、だんだん白い壁が見えてくる。思ったとおり、カメラマンは一人もいないようだ。ただ、ゲートの前に二人の女性が立っていた。一人は長身の永田絵里子である。今日はアロハにジーンズでボーイッシュなファッションだった。彼女は、先週も同じ講義のために、真鍋より少しまえにここを通りかかったのだ。  もう一人は、知らない顔だ。学生だろうか。髪が長くカールしている。膝丈《ひざたけ》のスカートにブーツ。大きなショルダバッグと、膨《ふく》らんだ紙のバッグを持っていた。 「あ、真鍋君」永田が気づいて、片手を挙げた。  反対側の歩道を歩いていたので、真鍋は斜めに横断して彼女たちの方へ近づいた。 「おはよう」真鍋は挨拶した。 「あのね、この人、私の友達なんだけれど、鈴原《すずはら》さん」永田がいきなり話す。「牧村亜佐美の大ファンで、屋敷の中にも入ったことがあるんだって、凄いでしょう?」 「へえ……」 「まえに、バイトで一緒だったんだよねぇ。ほら、話したでしょう? マジシャンのアシスタントのバイト」 「ああ……」 「あ、あのね。クラスメートの真鍋君」永田は今度は、鈴原に真鍋を紹介した。「ちょっとオタクっぽいけど、でもね、わりと変わってるけど」  文法がめちゃくちゃだな、と思ったし、永田の方が変わってないか、と言い返したかったけれど、真鍋は黙って軽く頭を下げた。 「でさ、今日も、訪ねてきたんだって、仕事休んで。わざわざ」永田が言う。「ファンクラブにも入っているんだって」 「会ってもらえたんですか?」真鍋はきいた。  鈴原は黙って首を横にふった。  訪ねてくるには、時刻が早くないか、と真鍋は思ったが、それは黙っていた。 「でも、インターフォンで話をしたんだよねぇ、今。私も聞いてたもん。うまくいくなら、私も一緒にファンの振りして中に入ってやろうと思ったけど……。なんか、冷たかったことない?」永田が鈴原にきいた。鈴原は、また横に首をふる。「ま、そりゃ、こんなときだからさ、無理もないとは思うけどね」  彼女のわかりにくい断片的な話を組み立て直すと、つまり、顔見知りだった鈴原に道でばったり会った。鈴原は、牧村のファンなので、事件のことが心配でお見舞いにきた。カバンが大きいのはお土産を持ってきたからだろう。彼女が牧村邸のインターフォンを押すとき、永田もつき合った。友達の付き添いで来た振りをして、あわよくば牧村邸に入ろう、と目論《もくろ》んだらしい。どうやら、簡単にあしらわれた、といったところのようだ。 「でも、出たの、あれ、牧村亜佐美だよねぇ」永田は言う。「絶対彼女の声だった」  これには鈴原も頷き、初めて嬉しそうな顔になった。言葉は少ないし、表情に乏《とぼ》しいが、人見知りしているのだろうか。永田が代わりにしゃべってしまうせいかもしれない。  真鍋は時計を見た。 「永田さん、講義は?」彼はきいた。あと五分しかない。講義のある建物まで歩くのに、それくらいは時間がかかる。 「ああ、そうそう……」永田は真鍋に答える。  ところが、そのとき、ゲートの横の小さな通用扉が開いた。中から、色白の女が顔を出した。 「あ!」鈴原が跳ね上がった。本当に跳ねたように見えた。 「早く中へ入って」女が手招きをした。  鈴原がお辞儀をして、中へ入っていく。真鍋は立ち止まっていたが、永田絵里子に背中を強く押され、二番目に戸口をくぐり抜けた。最後に永田が入る。女は、ドアの横に立っていて、扉を閉めた。 「先生、どうもありがとうございます! 本当に、ありがとうございます」高い声で鈴原が言った。ハイテンションな少女みたいな高い声である。  色白なのは厚化粧のせいだとわかった。黒い上下のスーツ。袖口や裾が広がっていた。牧村亜佐美本人らしい。鈴原の態度からも明らかだった。  永田は押し黙ってしまった。真鍋も言葉はない。自分たちも、ファンクラブの一員だと認識されてしまったのではないか。  敷地内の道路が奥の建物の前まで緩やかに上っていた。途中の右手に駐車場があり、パトカーが一台、そして黒っぽいワゴン車が二台駐車されている。その奥に車庫も見えたが、そちらはシャッタが閉まっていた。  ゲートを入ってすぐに目が行ったのは、左手に立っているポールだった。そこは工事中のようにコーンが立ち、黄色いテープが周囲に張られている。立ち入り禁止のようだ。 「先生、いかがでしたか? 大変だったのではありませんか?」鈴原がしゃべった。声といい口調といい、舞台の台詞《せりふ》のように聞こえた。 「うん、そうね。まだ、お葬式もできないのよ」おっとりとした落ち着いた口調で牧村は話す。二十代のはずだ。一見すると若そうだったが、近くで見ると、もっと年輩ではないか、といった印象だった。  三人はスターに連れられて、建物の中に入った。ロビィは広く、大理石の床が窓からの光を反射していた。奥に階段が見える。吹き抜けの天井には、大きなシャンデリア。靴は脱がないようだ。右手のドアから応接室のようなスペースに通された。赤いソファがL字形に並んでいる。その一方に三人は座り、もう一方に牧村亜佐美が腰を下ろした。彼女はテーブルに手を伸ばして、金色のケースから細長い煙草《たばこ》を一本取り出した。真鍋はその指を見ていた。紫色の爪が長い。指輪は金色。  戸口に年輩の女性が顔を出した。牧村はそちらに無言で頷いた。女性はすぐに立ち去った。家政婦だろうか。 「君たちは、初めてね?」牧村が永田と真鍋の方を見てきいた。 「永田絵里子といいます。はじめまして」永田が頭を下げた。「鈴原さんと、一緒にマジックのアシスタントのバイトをしたことがあります」  そこで言葉を切って、永田は真鍋の方を見た。次はお前だ、という顔である。真鍋は急に心臓の鼓動が速くなった。 「あの、こんにちは……、じゃなくて、おはようございます。僕は、あの、えっと、真鍋ですけど、その、あの……。このたびは、なんと言って良いのか……」 「ああ、良いのよ」牧村が笑いながら、片手を広げた。「そんな、気を遣わないでちょうだい。私なら、全然大丈夫だから。ただ単に面倒なだけです。特に、マスコミがうるさいのがちょっとね、本当、どうにかしてもらいたいわ」 「でも、不思議な気がしましたけれど。先生、あれは、いったい、どういうことだったのでしょうか?」鈴原が高い声で尋ねた。 「さあ……」牧村は口を一度歪め、首をふった。「私だってびっくり。何なんでしょう。とにかく、わかっていることは一つ。あれはマジックじゃないってこと」彼女は大袈裟《おおげさ》に肩を竦《すく》めた。「あの朝、貴女と一緒にいたでしょう? あれ、今になってみたら、もの凄く良かったの」 「え、どうしてですか?」鈴原がきいた。 「警察、貴女たちのところへもききにいったんじゃない?」 「はい」鈴原は頷く。「電話がありました。それから、刑事さんがわざわざいらっしゃいました」 「ねえ……、そういうことに時間を使っているわけよ」牧村は煙を吐く。「そんなことしている場合かしらって」 「アリバイですか?」真鍋はきいた。牧村も、ほかの二人も一斉に彼の顔を見た。急に恥ずかしくなった。「あ、えっと、あんな時刻に、一緒だったんですか?」 「そうなのよ。前の日の夜にショーがあって。終わってから、ファンの人たちと一緒に飲み会があったの」牧村はそこで笑いながら、鈴原の方へ顔を向けた。「朝までずっとだったよねぇ」 「はい。十人くらい残っていましたから」 「助かったよ、あれ。一人で飲んでいたら、疑われるところだったかも」 「疑われるって、まさか」鈴原が口に両手を当てた。「先生がですか? どうして、そんなぁ」 「私だったら、あんなことしない」牧村は首をふった。「何のつもりか知らないけれど……」煙草を吸い、彼女は煙を吐く。「まあ、あの人、あちこちで問題起こしていたから」 「横川さんがですか?」鈴原がきいた。  牧村は小さく頷いた。  横川という名前はすっかり忘れていたが、殺されたマネージャのことだ、と真鍋は思い出した。  マスコミがいかに失礼であるか、という話を牧村が始め、鈴原がそれに相槌《あいづち》を打っているうちに、さきほどの家政婦がトレィを持って現れ、四人分の紅茶を運んできた。薔薇《ばら》の香りがするが、味は普通の紅茶だった。  それを一口飲んだとき、真鍋はようやく自分の本来の立場を思い出した。そうだ、講義に出なければならないのだ。こんなところで紅茶を飲んでいる場合か?  彼は、隣に座っている永田の腕に、肘で軽く触れる。 「え、何?」彼女がこちらを振り返った。  その向こうにいる鈴原も、そして、牧村も真鍋を注目した。三人の女性に見つめられ、また鼓動が急加速する。 「あ、あのぉ、えっと、そうそう、あんな高いところに人間を持ち上げるなんて、物理的に可能でしょうか? そのぉ、うん、たとえば、あれがマジックだったとしたら、どんな方法で実現されますか?」真鍋はしゃべりながら質問を考え、なんとか誤魔化《ごまか》した。 「うん、そうね……」牧村は真鍋を見据えていたが、窓の方へ目を向けた。そちらが南側で、ポールが見えるのだろうか。真鍋は、振り返ってみたが、少なくとも彼の位置からはそれらしいものは見えなかった。立ち上がらないと角度的に無理かもしれない。 「良い質問ね」牧村が言った。その言葉に、また真鍋は彼女へ視線を戻す。「なにか、大掛かりな機械を作らないと駄目だね。設計に一ヵ月、製作にも一ヵ月は最低かかるかな」 「梯子車みたいなものですか?」真鍋は質問を続ける。こんなことをきいてどうなるのだ、と思いながら。 「もっと簡単なもの。梯子と滑車と、櫓《やぐら》を組んだような骨組みと。できれば、伸縮して、手軽に持ち運びができると良いわね。だけど、どうしてそんなことをする必要があるのかしら?」 「みんなをびっくりさせるという……、その、つまり、手品と同じような、えっと、アトラクションとして」 「ああ、そうか。外を通りかかった人がびっくりする、マスコミもびっくりする、それで注目が集められる、ということね。それでも、びっくりさせるだけのために、人が殺される必要はないでしょう?」 「お仕事に支障はありませんか?」鈴原が尋ねた。「横川さんがいらっしゃらなくて、お困りなのでは?」  ようやく牧村の視線が元どおり彼女の方へ向いた。真鍋はほっとする。 「いえ、もう代わりの人にお願いしてあります。大丈夫、心配はいりません。実は横川さんには近々辞めていただくことになっていたの」 「え、そうだったんですか」鈴原がびっくりする表情を見せる。彼女は、その死んだマネージャのことをよく知っているようだ。 「ええ、彼ね、地元へ戻りたいって言っていたのよ」牧村は答えた。「お父さんの跡を継がなくちゃいけないとかで。大きな酒屋さんなの」  真鍋はもう一度、隣の永田を肘で突いた。彼女がこちらを向く。今度は黙って向いてくれた。真鍋は顔を寄せて小声で囁いた。 「講義、どうする?」  永田がこちらを向き、目を大きくした。意味はわからない。「あ、忘れてた」かもしれないし、「そんな話、今するな」かもしれない。  ドアが開き、戸口で家政婦が顔を出し、牧村を呼んだ。 「ごめん、ちょっと待っていてね」彼女は立ち上がって、部屋から出ていく。  ドアが閉まり、三人は応接間に残された。真鍋は時計を見る。既に講義が始まって十分が経過していた。 「もう、そろそろお暇《いとま》した方が良くないかな」真鍋は提案した。 「ええ、そうですね」意外にも、答えたのは鈴原である。「先生にあまりご迷惑をおかけしてもいけないし」 「お金持ちだよねぇ」永田が部屋を見回して言った。「私、こういうの、超憧れちゃうなあ」  講義の心配はまったくしていないみたいだ。真鍋は一瞬、永田絵里子のことを尊敬した。女って凄いな、と。けれども、たしかに今の状況というか、この体験は、西洋美術史概論の聴講一回分よりは、得難《えがた》いものであることは明らかだ。西洋美術史にも、マジシャン・牧村亜佐美にも、同じくらい興味がない真鍋にとっても、である。  牧村はすぐに戻ってきたが、三人は立ち上がって、もう辞去することを告げた。鈴原は、紙バッグから持ってきた品を取り出し、牧村に手渡した。そういうものは、普通はさきに出すものではないか、と真鍋は思ったけれど、自分たちは手ぶらなので、そんなことが言えた義理ではない。  牧村とは、ロビィで別れた。彼女は奥の階段を二階へ上がっていった。三人は、家政婦に案内されてゲートまで歩いた。駐車場のワゴン車のところで、警察の人間らしい男が三人で立ち話をしていた。こちらをじっと見据えていた。まだ邸内で捜査が続いているのだろうか。  真鍋はゲートの手前にあるポールを眺めながら歩いた。コンクリートで一段高くなっているところに鋼鉄製の太いパイプのような基礎があり、そこから一回り細いパイプが天に向かって伸びている。上へ行くほど、少しずつ細くなっているように見えた。頂上には丸い形状のものがついている。現在はなにも掲げられていない。というか、旗を揚げるようなロープはなさそうだ。フックがあると聞いたが、下から見た限りでは、そのようなものは見えなかった。  三人は、通用口から歩道に出た。牧村邸にいた時間はトータルで二十分ほどだった。紅茶がただで飲めた、ということが、真鍋には一番影響が大きかった。      6  道路に出たところで、永田絵里子が教えてくれた。 「だから、休講だってば」 「え?」真鍋は驚いた。「休講?」  何の続きの「だから」なのか全然わからなかった。 「そうだよ。メールもらったもん」 「あ、そう……」真鍋は溜息をついた。「知らせてくれる友達がいて良いね」 「違うよ、先生から直接。鬼の北島から」 「え、どういう関係なの?」 「うん、まあ、微妙に仲良しかなってくらい」 「鬼じゃないじゃん」 「でも、お金もらったりとか、そういう関係ではないからね、誤解しないでね」永田は言った。「お金くれたら、さすがに私も、鬼なんて言わないもんね」  意味深《いみしん》なことを言うな、と真鍋は思ったが、黙っていた。  もう少し話をしようということになって、大学の正門から入り、キャンパス内のテラスへ三人は移動した。屋外だが腰掛ける場所がある。 「良かったね、会えて」腰掛けると永田が鈴原に言った。 「先生は、ファン思いだから」鈴原が微笑んで頷いた。満足げな表情である。 「なんかさ、手品とか見せてくれるのかと思った」永田が言った。「ほら、煙草を吸ってたでしょ。あのとき、きっと薔薇になるぞって思っちゃったけど、本当の煙草だったね」  そんな期待をしていたのか、と真鍋は呆《あき》れた。牧村に会っている間は、永田絵里子は猫を被《かぶ》ったように大人《おとな》しかったが、今はすっかり復活している。 「マネージャさんが亡くなったのに、さばさばしている感じだったね」真鍋が感想を言う。「もう、代わりの人がいるとかさ」 「ええ、あまり仲が良くなかったんですよ」鈴原が話した。 「牧村さんとマネージャさんが?」 「そうです」彼女は頷いた。「横川さんがテレビ局から金をもらっていて、安い仕事を引き受けすぎるって、そんなお話を先生から伺ったことがあります」 「癒着《ゆちゃく》だ、それ」永田が言う。 「へえ……、いろいろ難しいんだ」真鍋は頷く。どこにでもありそうな話ではあるな、と思った。 「それって、ワイドショーでも似たようなこと言ってたよ」永田が話す。「なんかね、マネージャ氏が暴力団と関係があって、そのことが問題になっていたとか。だから、そっち関係で殺されたんじゃないのかって」 「暴力団はあんな殺し方しないと思うな」真鍋は言う。 「どうして? だから、見せしめなのよ」 「誰に対する?」 「うーん」永田は難しい顔をして、空を見上げた。「誰だろう? あ、そっか、牧村亜佐美に対してかな」 「自分の家の中だからね、気持ちが悪いとは思うかも」真鍋は頷いた。「だけど、そんなに堪《こた》えているふうではなかったし」 「警察、まだいたね。どんな捜査をしているのかなぁ」永田が目を大きくして話す。「テレビでもいろいろ憶測してるけど、一番疑われているのは、やっぱ、鷲津伸輔だね」  聞いたことのある名前だ。そう、小川令子から聞いたのだ、と真鍋は思い出す。 「そんなことありえません」鈴原が立ち上がった。 「ごめんごめん」永田も立ち上がって、両手を鈴原に差し伸べる。「私が思っているんじゃなくって、ね、テレビでそう言っていた、という話だよ。誤解した? 紛《まぎ》らわしいこと言ってごめんなさい」  鈴原は顔を赤らめたが、腰を下ろす。永田も座り直して脚を組んだ。 「だから、テレビが話しているところによると、その……、怒らないでよ」彼女は鈴原を一瞥《いちべつ》したあと、真鍋を見て言った。「鷲津伸輔と牧村亜佐美が、えっと、ね、関係があって、それから、マネージャ氏とも、えっと、その、ね、あったかもしれなくて、つまり三角関係? それが縺《もつ》れて、こんなことになったんじゃないかって」鈴原のことを考えて、永田は言葉を選んでいるようだった。 「どういうこと? つまり、鷲津伸輔が、若い愛人に嫉妬して、横川さんを殺したってこと?」真鍋はきいた。 「違います! 絶対そんなふうじゃありません」また鈴原が立ち上がった。 「ごめんなさい」今度は真鍋が立ち上がって謝った。「言葉が悪かったですね。えっとぉ、僕がそう思っているということじゃないですから」  鈴原は溜息をついて、腰を下ろした。不思議な人だな、と真鍋は思った。面白くて笑いそうになったが必死で我慢する。 「でも、あれは、鷲津伸輔なら、できそうだよね」永田は鈴原に顔を向けて言った。 「ほらほら、ポールの上にのせるなんて、お手のもんでしょう?」  鈴原は黙って頷いた。それは認めたようだ。どういう場合がいけないのだろう。牧村亜佐美との関係に触れてはいけない、ということだろうか。 「その、お手のものっていうの、マジックの話?」真鍋は尋ねる。「そういえば、さっき牧村さんも、装置が必要だって話していたね」 「えっとぉ、鷲津伸輔のマジックでね、ハットを投げるやつがあるでしょう?」永田は続ける。  鈴原が目を上げて、頷いた。今度は積極的な肯定のようだ。 「どんなの?」真鍋はきいた。 「あのね、マジックショーの一番最後に、それまで被っていたシルクハットを上に投げるの。それが、するするっと上がっていって、アシスタントが持っていたポールの一番上に引っかかるわけだ」 「ポールを持っているの?」 「そう、その、えっと三メートルくらいかな、もっとあるかな。そこに、つぎつぎ万国旗とかを引っかけていってね、最後にその上にハットを投げ上げるわけよ」 「それもマジックなんだね?」 「当たり前じゃない。そんなのができたら、曲芸じゃない」 「曲芸かもしれないよ」真鍋は言った。 「違う違う」永田は首をふった。「もっと変なのよ、動きがね、ポールに当たってから、するするっと上に這《は》い上《あ》がるみたいな」 「あ、じゃあ、糸で引っ張られているわけだね」真鍋は指摘する。 「でも、それまで被っていたんだよ。ときどき、使っていたものなのだよ」 「まあ、それは、どこかで糸を付けたわけだ」 「それ言っちゃえば、手品なんか、全部そうなっちゃうでしょ」 「あれは、牧村先生も、ときどきなさいます」鈴原が言った。  永田は彼女の方を向いて、大袈裟に頷いてみせた。小さい子供の機嫌を取っているようにも見える。 「で、だから、何なの?」真鍋は話の先を促《うなが》した。 「え?」永田がこちらを向いた。 「それが今回の事件と、どう関係するわけ?」 「わからない?」 「いや……。死体を放り投げて、あそこに引っかけるマジックだとか?」 「違うよ、糸で引き上げたってこと」 「でもさ、そんな簡単にいく? もの凄く重いよ」真鍋は指摘する。「あ、マネージャさんの体重って、どれくらいだったのかな。見た感じ、そんなに太っている人ではなかったけど」 「六十五キロくらいか」永田が言った。 「じゃあ、牧村さんには無理だよ」真鍋は言う。 「え、どうしてよ?」 「ポールの上に滑車があって、そこにロープを通して、下から引き上げたとしても、自分より重いものを持ち上げられないよ。ロープを引いても、自分の躰の方が持ち上がっちゃう」 「そんなの、どうにだってなるでしょ」永田が言った。「躰に重りを縛りつけておけば良いだけじゃん。鉛の靴を履くとかさ」  真鍋は吹き出した。しかし、永田の意見は理にかなっている。意外に頭が回るな、と彼女のことを再評価した。 「鷲津伸輔も、太ってはいないよ」永田はつけ加える。 「その人、いくつくらい?」真鍋は尋ねた。 「発表されている生年月日によれば、今年で四十五歳です」鈴原が答える。 「あ、牧村さんはいくつですか?」真鍋はついでに質問した。「もし、秘密でないなら」 「先生は、今年で二十九歳だと思います」鈴原が言った。「ホームページに公開されています」 「二十九歳か……」永田が呟くように言う。  小川令子と同じくらいかな、というのが真鍋の正直な印象だった。      7  真鍋は、昼過ぎに事務所に到着。午前中に牧村亜佐美に会ったことを、さっそく小川に話した。 「嘘に決まってるじゃないの、そんなのぉ」小川は頭ごなしに言った。 「やっぱり、そう見るべきですか」真鍋は笑ってしまった。 「当たり前のこんこんちきよ。見たらわかるでしょう。あれが二十代の顔? どう見たって、もうすぐ四十よ」 「いえ、そこまで老《ふ》けているかなぁ」 「何? 四十が老けているっていうの?」 「そんなこと言ってません。僕としては、ええ、たしかに、見た感じ、三十代の後半かな、と思いました。小川さんくらいだと思ったんですよ」 「私だって、まだ二十代でも通るわよ」 「うーん」 「ほらほら考えているじゃない。ね、歳って、そんなには誤魔化せないものなのよ」 「十歳くらいは誤魔化せますよね、女性なら」 「まあね、限界に挑《いど》めばね」 「そうか、牧村亜佐美は、三十九歳ってことになりますね」 「だいたい、それくらいだと思っていたら、騙《だま》されないで済むと思うわ」 「もしそうだとすると、マネージャの横川さんの方が歳下だったわけですね」 「そうそう、普通そうでしょう? 鷲津伸輔との年齢差を考えても、それくらいがいい線じゃない。良いところよ」 「何が良いんですか?」 「バランス、バランス」  どうして二回繰り返すのか、真鍋にはよくわからない。 「じゃあ、やっぱり三角関係だったと?」 「まあ、週刊誌とかで、あれだけ書かれているってことは、そりゃやっぱりそうなのよ。火のないところに煙は立たずって言うでしょう?」 「鷲津伸輔は、テレビに出てきたんですか?」 「いえ、雲隠れしているみたい。警察は見つけていると思うけれど。いつまでも隠れていたら、疑われるだけだものね」 「そういう人間関係とかしか出てこないんですか? もっと、科学的に捜査をしているんじゃないかな、その結果を発表してもらいたいものですね」 「それは発表できないよ、証拠になるようなことなら、なおさら」小川は言った。「周りは無責任に、話のネタを探しているだけ、野次馬根性でね」 「ま、僕らも野次馬ですからね」 「で、その子、どんな子なの?」 「ああ、えっと、そうですね。小柄で大人しそうな人でした。でも、牧村亜佐美の前になると、もう別人のようにハイテンションで」 「ファンの子じゃなくて、もう一人の」 「ああ、永田さんですか。いえ、彼女はファンクラブでもなんでもないですよ」 「大学の子だよね」 「同じ講義を取っているんです。彼女も留年していて」 「同病相憐れむ関係なのね」 「は? ドービョーって?」 「どんな感じの子?」 「えっと、そうですね、背が高くて、美人ですよ。モデルのバイトとかしていて、もう、それで食べていけるんじゃないかな」 「へえ……」小川は腕組みをした。 「何ですか?」 「いえね、真鍋君が、女友達の話をするのって、これが初めてじゃない」 「そう、かな。あ、女友達なんてものが、そもそもいませんからね」 「親しいの?」 「いえ、全然」真鍋は首をふった。  事実、最近まで話をしたこともなかったのだ。 「あぁあ」小川は両手を上に伸ばして欠伸《あくび》をした。「良いなあ、青春を謳歌《おうか》できて。私ももう一度大学生に戻りたいわぁ」 「べつに、試験を受けたら、入学できますよ」真鍋は言った。 「いえ、勉強がしたいわけじゃないの」 「社会人の学生とかいますし、案外、年寄りの学生もいますよ。講義に紛れ込んだり、キャンパスを歩くくらいなら、誰でもできちゃいますし」 「いいのいいの、本気にしないで。あ、そうか、またW大へ行ってこようかしら」 「西之園先生のところですか?」 「うん、なにか事件のことで話が聞けるかもしれないし」 「僕も一緒に行っちゃ駄目ですか?」 「いいけど、あのね……」小川は急に真面目な顔で、彼を睨みつけた。「絶対に、西之園先生の前で、椙田さんの名前を出さないこと。約束できる?」 「え? ええ、べつに、そんなの簡単ですけど」 「理由も聞かない」 「あ、はい……。でも、そんなこと言われると、爆発的に想像しちゃいますけど、僕」 「うん、そうだよね」 「小川さんも、爆発的に想像したんですか?」 「うーん、爆発はしなかったかな」 「そうですか」 「まあ、想像は自由。とにかく、口にしないこと」 「へえ、そうなんですかぁ」真鍋は長い息を吐いた。 「何を想像したの?」 「いえ、とても言えません」 「凄いこと考えてるんじゃないの?」 「考えました。もの凄いこと」 「あそう……、どんなのかな。私の想像より凄いかしら」 「さあ、小川さん、どう考えたんですか?」 「ちょっと、言えないわよ。恥ずかしくて」 「あ、それは凄そうですね」  しかし、二人が西之園のところへ行くまえに、別のルートで、この事件に関する情報がもたらされることになった。 [#改ページ] 第2章 しかし虚構の眺め [#ここから5字下げ] 彼らは、アマドール神父の机の上に、血をぬぐったナイフを置いた。残忍な人殺しをしてきたため、二人とも疲れ切っていた。服や腕は、汗とまだ生々しい血でべとべとになり、顔も汚れていた。だが神父は、自首することは、誇り高い行為であると言った。 [#ここで字下げ終わり]      1  鷹知祐一朗《たかちゆういちろう》が三澤《みさわ》家を訪れるのは二回めのことだった。都内の閑静《かんせい》な住宅地の丘の上にある。というよりも、その丘がすべて三澤家の庭園だといってもまちがいではない。鷹知はタクシーでここまでやってきた。時刻は六時。太陽はまだ沈んでいない。門を入るまえに、庶民が住む街が低いところに見渡せた。こういった景色を毎日眺めていれば、自身の高貴さがごく自然なものとして確立されていくのかもしれない、と考えた。  インターフォンで名乗ると、ゲートが自動的に開いた。カメラが設置され、こちらにレンズを向けている。園内を奥へ進むと、建物のドアのところに、年輩の紳士が待っていた。その彼に案内され、館内に入る。ロビィから階段を上がり、明るい部屋に通された。室内は冷房が利《き》いているようだった。もう、そんな季節なのか、と彼は思った。まだ長袖のジャケットを着ていたからだ。  応接セットに腰掛けてしばらく待った。壁に肖像画が幾つか並んでいる。すべて年輩の男性だ。絵に描く価値のある人物が一族の中にこんなに大勢いるのか、と感心した。  ドアが開き、三澤|宗佑《そうすけ》が入ってきた。大柄だが、もう老人である。灰色の上品なカーディガンを着ていた。 「やあ、久しぶりだね」三澤が片手を差し出した。 「こんにちは」鷹知は立ち上がって握手をする。 「わざわざすみません。まあ、座って下さい。何が良いかな? コーヒー?」 「いえ、どうかお気遣いなく。仕事で参りましたので」 「ああ、うん……」三澤は頷いた。  ドアが開き、さきほど案内をしてくれた男が一歩だけ部屋の中に入った。三澤は無言で頷く。その男は一礼して、また部屋から出ていった。ドアが閉まったあと、三澤は肘掛け椅子にもたれかかり、少し見上げるような視線で壁を見つめた。肖像画を眺めているわけではないだろう。鷹知は黙って待った。 「牧村亜佐美を知っているかね?」三澤がきいた。 「はい。あの、今、事件で話題になっている……」 「そう」三澤は微笑んだままの顔で頷いた。「娘が、彼女の大ファンでね、そんなこともあって、私も何度か牧村さんに会った。今回の事件は、とても不幸なことだ」彼はそこで一度目を瞑《つぶ》り、言葉を切った。「実は、死んだ横川さんと、その、私の娘は親しい友人だった」 「そうでしたか」鷹知は驚いた。突然の話である。「それは、なんと申し上げて良いのか」 「それで、君を呼び出したのも、それに関連することなんだがね」三澤の口調に変化はない。「実をいうと、警察には、横川さんと娘の関係については話していない。こんなことになった以上、娘を晒《さら》し者にするわけにはいかないからだよ」 「はい、お察しいたします」 「あくまでも、娘は、牧村亜佐美の一ファンとして、彼女と交友があった、というだけだ。そういうことにしてもらいたい。だが、一方では、少々不思議に思うこともある。私は、横川さんを通じて、牧村亜佐美には、ある程度の投資をしているのだ。まあ、これも娘のことを考えてのことだといわれれば、そうかもしれない。そんなに有望株だと私が積極的に判断したわけではないからね」  話の途中だったが、ドアが小さくノックされ、男がトレィを持って入ってきた。テーブルにカップが並ぶ。エスプレッソの小さなカップだった。黙って一礼をして男が出ていくまで、言葉は交わされなかった。 「煙草を吸うかね?」三澤はカップにシュガーを入れ、掻き混ぜながらきいた。 「あ、いえ、けっこうです」鷹知は軽く頭を下げる。  三澤は小さなカップを口につけ、それをテーブルに戻すと、カーディガンのポケットから煙草を取り出して、火をつけた。カップのスプーンの音、彼の呼吸、そしてライタの音、吐き出される煙と溜息、そういったディテールを鷹知は聞いた。 「横川さんというのは、少々はったりの多い男だったが、悪い人間ではなかったよ。殺されるような恨みを買うとは思えない」三澤は語った。「これも警察には話していないことだ。刑事がやってきたが、私は、なにも知らないと言っただけだ。関わりたくないからね。娘にも、今は我慢をさせている。気が狂うんじゃないかと心配したほどだが、まあ、時間が経てば忘れるだろう。長い目で見れば、そうだね、かえって彼女の人生にはプラスになったかもしれないね。私は、横川さんと娘が結婚することには反対をしていた」  さきほどは、親しい友人と言っていた。それが、今は結婚という言葉になった。鷹知は黙って聞いている。三澤の言葉に集中していた。 「もちろん、今さらこんな話をしてもしかたがない。誰にも言えないことだ」三澤は少し笑い、またカップに口をつけた。煙草の煙が辺りに漂っていた。「牧村さんの家のある、あの敷地もね、私が彼女に貸しているようなものなんだ。完全に彼女の土地ではない。あそこには、もっと違う施設を建てるつもりだったんだがね。まあ、そう、あの人は、よくわからない人でね」 「牧村さんのことですか?」鷹知は確かめた。 「うん、そう。彼女は、もともとは鷲津伸輔のアシスタントだった。ずっと昔のことだ。そのときから、私は知っていた。そう、鷲津とは腐れ縁というのか、長いつき合いでね。何が最初だったかは忘れてしまったが、私もまだ若かった頃だ。あいつとは、この頃はほとんど会わない。もう飲み歩くにも私は歳を取りすぎた。とにかく、私が積極的に援助をしたのは、あくまでも、牧村さんの方だ。今でも、それについて後悔はしていない」  ここで、また三澤は黙った。煙草を吸い、カップを口へ運ぶ。鷹知は、とにかく待った。いったい何のために三澤はこの話をしているのか、と考えた。三澤家とマジシャンたちの関係、マネージャと令嬢の関係、それがどう展開するのか。 「では、要点を話そう」三澤は身を乗り出し、まず灰皿で煙草を揉み消した。煙そうに顔をしかめたが、そのままの表情で視線を上げ、鷹知を捉えた。「横川さんを殺したとしたら、その動機があるのは、鷲津か、あるいは牧村さんだ。この二人は、私にとって、いずれも無視できない人物なんだ。どちらにも金を貸している。鷲津には、まあ友人として少額だけだし、返ってくるなんて期待もしていない。また、牧村さんには、けっこう多額の投資をしている。彼女の方が将来性があるから、それは当然のことだ。ただ、万が一のことがあれば、私はちょっとした損をしなければならん。だから、可能なかぎり早く、事の次第を見極めたいのだよ。警察は裏の事情を知らない。いずれ行き着くかもしれないが、それでは遅すぎる。こういったことは、内情を知っている者にしか調べられないだろう。私が自分でやれば良かろうが、だが動くわけにもいかない。もちろん危険だ。君を呼んだのは、そういう事情からだよ。わかるかね?」 「はい」鷹知はすぐに頷いた。 「君に仕事を依頼するのは、今回が二回めだね。まえのときは、小さなことだったが、丁寧に調べてくれた。信頼ができる人間だと買っている」 「ありがとうございます」鷹知は頭を下げた。 「質問があるだろう?」三澤は椅子の背にもたれかかった。 「あります。その、つまり、調査の手法についてです」鷹知は一番肝心なことを質問する。「調べるというのは、つまりご本人に会って、話を聞いてこい。その周辺を調べてこい、という意味だとまず考えましたが、そういった行動を取れば、当然ながら、ご本人は自分が調査の対象となっていることに気づきます。事件についても疑われていると考えます。その点についてはいかがでしょうか? 調べることは簡単ですが、人知れず行うことは難しいと思います」 「うん、気づかれてもかまわんよ」三澤は可笑しそうな表情になった。「疑われていることくらい、重々承知しているだろう」 「わかりました。ただ、誰が知りたがっているのか、ということは隠さなければならないのですね?」 「それも、勘が良い人間ならばわかることだ。いや、それくらい勘が良ければ、逆に人物としても大丈夫かもしれないね。まあ、もちろん、私が依頼したということは表に出してもらっては困る。君に金を払うのはそこだ」 「了解しました」 「何がどこまでできるかはわからんが、とにかく、動いてくれ。二日後にまた会おう」 「二日後ですか、わかりました。急ぐ用件なのですね」 「なにごとも、早い方が良い」三澤は喉《のど》から息を漏らすようにして笑った。      2  三澤の家を出た鷹知は考えた。この時間からいきなり、牧村亜佐美の家を訪ねるには、やや準備不足だ。それは明日にして、できるかぎり情報を集めよう。武器を掻き集めよう。  彼は、まず小川令子に電話をかけた。というのも、つい昨日、彼女と会ったとき、牧村亜佐美の事件のことが話題になったからだ。彼女の事務所でバイトをしている真鍋瞬市が、牧村亜佐美の家にファンと一緒に招かれた、という話を、小川が面白そうに語っていた。 「もしもし、鷹知です」 「こんばんは」小川の声だ。 「ちょっと、いいかな。話があるんだけれど、えっと、どこにいます?」 「まだ、事務所です。もう帰ろうと思っていたところ」 「真鍋君もいる?」 「ええ、いますよ」 「食事はまだ?」 「ええ」 「じゃあ、一緒にどうかな?」 「私はOKですけれど、ちょっと待ってね」小川は言葉を切った。真鍋にきいているのだろう。「あ、真鍋君も大丈夫。何の話ですか?」 「うーん、まあ、それはお楽しみに……」  落ち合う場所と時間を決めて電話を切った。地下鉄の駅の方へ歩きながら、また別のところへ電話をかけた。 「もしもし」低い男の声だ。 「あ、あの、鷹知です。お世話になっております」 「君か、何だね?」 「牧村亜佐美の家の事件、鈴木《すずき》さん、ご担当ですか?」 「いや、違う。どうして? なにかあるのか?」 「ええ、ちょっと情報交換をしたいと思ったものですから」 「え、何だよ。重そうなものか?」 「いえいえ、そんなに大したものでは全然ありません。僕の方も、もう少し確かめてみますけど……。あの、見込みだけでも、どんなふうかわかりませんか?」 「うーん、なんともいえない状況じゃないかな。少なくとも、ホシは全然、見定まっていない。ありゃ、なんだな、プロの手口だと思うね。腹をぶすりとやられていた」 「でも、あんな高いところへ上げた理由は?」 「担当者に会わせようか?」 「はい、是非。今夜にでも」 「今夜か。うーん、ちょっと聞いてきてやるから、あとでまた連絡するよ」 「よろしくお願いします。すぐだと出られないかもしれません。今から地下鉄に乗ります」 「わかったわかった」  鷹知は電話をポケットに仕舞い、地下鉄の階段を駆け下りていった。      3  賑《にぎ》やかな居酒屋の奥のテーブルに、小川と真鍋は向かい合って座った。約束の時刻の三分まえだった。 「ああいうメニューを見ると、心が躍《おど》りますよね」真鍋が壁を指さして言った。  小川もそちらを見る。特に変わった品目が掛かっているわけでもなかった。 「何が食べたい?」小川はきいた。 「一番は、肉じゃがですね」 「肉じゃがかぁ……。まあ、ありがちだな。どうして、男の子って、みんな肉じゃがなの?」 「うーん、やっぱり家庭料理に憧れているからじゃないかな」 「家庭料理ねぇ」 「帰ったら、温かいご飯がある、みたいな」 「明らかに妄想だな。肉じゃがの次は?」 「そうですねぇ。二番めは、唐揚げですね。あと、ソーセージとか、それから、サイコロ・ステーキとか」 「簡単でいいな」 「お金があるときは、自分でも買ってきて作りますけどね。でも、こういうところで食べるやつは特別じゃないですか」 「そうかなぁ」 「美味しいですよ、やっぱり」 「おお、可哀相だよ」小川は肩を上げ、首を回した。 「お疲れですか?」真鍋が尋ねる。 「え?」 「肩凝《かたこ》りでしょう? この頃、何度か、その動作してますよ」 「よく見てるわねぇ……」小川は驚いた。 「四十肩っていいますけど」 「馬鹿者」小川は腕を動かした。「ちょっとね、普段あまり使わない筋肉を動かしているから、躰のあちこちが痛くって」 「あ、わかった。ビデオを見て運動するやつでしょう?」 「は?」 「ダイエットの」 「違う」 「ま、否定しますよね、普通」 「うーん、しょうがないなあ。あのね、習い事を始めたの」 「ダイエットのためにですか?」 「そんなに、私にダイエットさせたい?」 「これから夏本番ですからね。お腹を見せられるようにしとかないと」 「面白いこと言うわね」小川は微笑んでみせ、目だけに力を入れて真鍋を睨みつけた。 「あとで、一発お見舞いしてあげるから」 「海とか行かないんですか?」 「行かないよ、そんな」 「じゃあ、あれでしょ、プールサイドで大きなサングラスとかかけるんですか?」 「君ね、なんか、間違っていると思うぞ」 「習い事って、何ですか?」 「何だと思う?」 「少林寺か、空手でしょう?」真鍋は即答した。 「あれ、どうして知ってるの?」 「いえ、勘ですよ」 「へえ、なんで、わかったんだろう」 「このまえの事件で、あんなことがあったからですね?」  店の入口に鷹知祐一朗が現れるのが見えた。小川は、片手を挙げて彼を招く。今日の彼は、黒いスーツでビジネスマンふうだった。 「こんばんは。急に悪いね、呼び出して」鷹知がテーブルまで来て言った。 「いえいえ、とんでもないです。ご馳走になります」真鍋が頭を下げる。「大感謝です。ありがとうございます」  鷹知は真鍋の隣に腰掛け、テーブルにあったお絞りの封を破った。店員がメニューを持ってやってきたので、三人は飲みものをまず注文した。店は八割くらいの席が客で埋まっている。話し声が方々から聞こえ賑やかだ。三人はしばらくメニューを眺めながら近未来について打合せをした。  ビールのジョッキが運ばれてきた。打合せの結果を、小川が代表して店員に伝えた。  肉じゃがもソーセージもサイコロ・ステーキも注文に含まれている。  店員が立ち去ったところで、ジョッキを持ち上げて乾杯をした。 「ああ、美味しいな」小川は溜息をつく。「で、何の話なんですか?」 「えっとね、あの牧村邸の事件のことで君たちの話が聞きたかったから」 「へえ、どうしてです?」小川は身を乗り出した。 「うん、依頼があって、調べることになった」 「凄い、本当ですか?」真鍋が声を上げる。「あるんだ、そんなことって。誰ですか、そんな物好きな依頼人は」 「こらこら」小川は真鍋を指さした。 「こればかりは、ちょっと君たちにも言えない」鷹知は言葉を濁す。 「それよりも、不思議。何を調べるの?」小川は尋ねた。「まさか、犯人を捕まえてくれってことではないでしょう?」 「そうだね、結果的にそうなれば、もちろん良いけれど、それよりも、まあ、素行調査みたいなものかな」 「何ですか、ソコウって」真鍋がきいた。 「日頃の行いのこと」小川は答える。「えっと、誰の?」 「牧村亜佐美と鷲津伸輔の二人」鷹知はジョッキを持ち上げながら言った。 「その二人の関係を調べろっていう意味?」小川は首を傾げる。 「いや、そう単純でもないね。なんというのか、まあ、疚《やま》しいところがないか、という身辺調査みたいな方向性かな」 「よくあることなんですか? そういうのって」 「そう、ときどきあるね。たいていは、結婚相手とか、それとも、役員なんかに引き抜くときとか」 「ふうん……、探偵の仕事って、けっこう世の中に需要があるんだ」小川は感心した。「でも、そんなことが調べられるっていうのも、凄い才能だと思うわ」 「いや、才能じゃないよ。むしろその逆だ。時間をかければ、誰だってわかる情報を集めてくるだけのことだよ。単に、それだけの時間をかけられる人間がいないだけ。たとえば極端な話、本人に会ってインタビューしてくれば良い。ほら、ワイドショーのレポータと同じだね。とにかく、本気で隠されていることは、調べたってわからない」 「そうか、レポータも張り込みとかしてますね」真鍋が言った。「鬱陶《うっとう》しがられたりしませんか?」 「そりゃあ、良い顔はされないよ。ほら、首を突っ込むっていう言葉があるだろう? あれがそのまま探偵の仕事だ」  料理の皿が二つ届いた。サラダとソーセージだった。 「いただきまーす」真鍋が割り箸を持って両手を合わせた。 「さあさあ、しっかり食べて、栄養を取るのよう」小川が皿を真鍋の前へ寄せる。  真鍋が、牧村亜佐美に会ったときの話を鷹知にした。鷹知は、そのとき一緒だった鈴原というファンの女性のことを尋ねた。 「連絡先は、わかる?」 「えっと、僕は知りませんけれど、永田さんって子にきけばわかりますよ。バイトで一緒だったらしいですから」 「あ、じゃあ、聞いてみてもらえないかな。えっと、できれば、早い方が助かる。明日にでもその鈴原さんに会いたい」鷹知は言った。「わりと急ぎの用件なんだ」 「はいはい、ちょっと待って下さい。メールしときます」彼はポケットから携帯電話を出して、テーブルの下でメールを打ち始めた。 「あ、そういえば……」小川は思い出した。「W大の西之園先生の話をしてなかった」  事件の翌日に、現場に来ていた彼女の話を鷹知に説明した。 「西之園って、聞いたことのある名前だなあ」鷹知は言った。「えっと、どこかのお金持ちで、あ、そうそう。テレビに出たことがあるね。何年かまえだ。どこかの大学生だったはずだけれど」 「すっごい美人ですよ」真鍋が下を見たまま言った。 「うん、そうそう、ちょっと印象的なね」鷹知は頷く。 「まったく、男っていうのは……」小川は笑いながら舌打ちをした。「警察も一目置いている感じなの。このまえ、私、助けてもらっちゃったし」 「え?」 「電車のとき」 「ああ、そうなんだ。その人だったのか」 「それで、今、小川さんも、拳法を習っているんだよね」 「憲法? その人、法学部なわけ?」鷹知が言った。 「そのケンポウじゃなくて」小川は吹き出す。そして、右手の拳《こぶし》を前に出した。「こっち」 「へえ。それは、また……」鷹知が目を大きくした。 「ダイエットを兼ねて」真鍋が言う。 「全然違います」小川は彼を睨みつけた。 「とにかく、明日、いろいろ当たってみる。いや、今夜にも、できることがあるかもしれないな」鷹知は腕時計を見る。「もう少ししたら、僕は失礼するよ……」 「え……」ソーセージをくわえたまま真鍋が驚いた顔を上げる。 「あ、大丈夫、食事代はもちろん僕が持つから」 「そんなに大変なの?」小川は少し心配になった。 「いや、まあ、最初だけだよ。スタートダッシュは、精一杯のところを見せないとね」  それはなんとなく小川にもわかった。ビジネスというのは、そういった駆け引きがあるものだ。 「あとは、えっと、そうそう、君たちの見解を聞いておこうかな」鷹知が二人を交互に見た。 「見解って、事件に対する?」小川は言った。「そんなの、だって、なにもわからないもの。何が起こったのかも、私たちには伝わってこないわ。完全な情報不足」 「いや、でも、人が殺されて、ポールの上にのせられていたんだよ。あれについては考えられるんじゃないかな。どんな意味があるのかって。むしろ詳しい情報がない方が、自由な発想ができるかもしれない」 「トーテムポールってありましたよね」小川は思いついて言った。「あれを連想しちゃった、私」 「何ですか、それ」真鍋が首を傾げた。 「あら、知らない? 小学校にあったでしょう?」 「あったね」鷹知が頷く。「つまり、なにか宗教的な儀式なのではないかって意味だね?」 「そう」小川は頷いた。 「意味わかんないですよ、僕、全然」真鍋が口を尖らせる。「オカルトってことですか」 「まあ、そうね」 「そこまでいかなくても、見せしめ的な意味はあったかもしれないね。表を通る人間に見せたわけだ」鷹知は言った。「そうすることで、事件が早く発覚してほしかったのかな」 「というか、その時間に発覚してほしかったんですよね」真鍋が言った。「夜のうちに上げておいて、朝になったら、自然に見つかるという」 「でも、あんなに高く上げる必要ないんじゃない?」小川は言う。「塀の外に出しておけば、自然に見つかるでしょう?」 「すぐに見つかっちゃ駄目だったんですよ。暗いうちは、見つからず、その間に、犯人は遠くへ逃げたわけですね」 「うーん、ありえない感じ」  店員がまた料理を運んできた。肉じゃがが来たので、小川はそれを真鍋の前に移動させる。 「じゃあ、どうやってあそこまで持ち上げたのか、という点については?」鷹知が別のテーマで質問した。 「それもね。何ができて、何ができないのか、条件がしっかりわからないから、考えようがないっていう感じですね」小川は首をふった。「電気工事をする作業車を使ったのかもしれないし」 「僕は、最初は、どこかから飛んできたのかと思いましたよ。えっと、たとえば、空からとか」真鍋が言った。 「落ちてきたって言ってたね」小川も思い出す。「ヘリコプタとかから?」 「それはないね」鷹知が口もとを緩める。 「でも、マジシャンの家なんだから、なんとなく、ショーみたいなものを連想しちゃいますよね」真鍋が話す。「不思議さは、しっかり演出されていると思うんです」 「だけど、あれって、物理的に絶対に不可能というわけではない。手品だったら、もっと不可能を演出するのが一般的だ」鷹知は言った。「不思議なのはむしろ、わざわざそんなことをした目的の方だね」 「ええ、でも、マジックって、そもそもそうじゃないですか」真鍋は肉じゃがに箸をつけた。「どうしてそんなことをわざわざするのか、ということばかりでしょう?」 「それは、お客さんを楽しませるためで」小川は指摘する。「え、じゃあ、何? 今回の事件もエンタテインメントだっていいたいの?」 「少なくとも、死体が歩道の外に倒れていて見つかるよりは、全国的にニュースになったわけですし、話題にもなっていますよね」真鍋は言う。大きなジャガイモを口の中に入れたので、言葉はそこで途切れた。 「ということは、メリットが牧村亜佐美にはある、ということね」小川はそう言いながら鷹知を見た。 「メリットかなぁ」鷹知が僅かに顔を傾ける。 「ええ、そう……」小川も頷く。自分で言っておいて、まったく自信がなかったのだ。真鍋に視線を戻したが、彼はまだ肉じゃがを頬ばっていた。「あるいは、考えられるとしたら、いかにもマジシャンのやりそうなことだ、というふうに見せかけようとした、とか?」 「いや、それだったら、もっとわかりやすくすると思う」鷹知が反論した。「マジックのステッキとかスカーフとかを置いておくとか」 「鳩を飛ばすとか」口をもぐもぐさせながら真鍋が言った。「でも……」そこで彼は口の中のものを飲み込んだようだ。「マジックって、たしかに、観客になにかが起こっていると見せかけるけれど、それって、実際に起こっていることを隠すためのものですよね。そういう意味に使われたと思うんです」 「え、どういうこと?」小川は尋ねた。 「そうか」鷹知は頷いた。「つまり、カモフラージュか。目を向けられては困るものを隠す目的で、あんなことをした。そちらにみんなの注意が向くようにした、ということだね?」 「そうです」真鍋は頷く。「だから、そうなると、あのポールにのっていた死体のことをいくら考えても駄目なんです。それじゃあ、犯人の思う壺ということになりますから。あれを忘れて、もっと別のものに目を向けないと」 「いえ、ちょっと待ってね」小川は片手を広げた。「目を逸らすだけのために、あそこまでする? もの凄く大変じゃない? 労力的にも」 「だけど、マジックって、そういうものですよね」真鍋は淡々と答えた。「あ、メール返ってきたかな」彼はポケットに手を入れる。  しばらく下を向いていた真鍋は、隣の鷹知に携帯電話のモニタを見せた。牧村のファン、鈴原の連絡先を、クラスメートに問い合わせていた。その返事が戻ってきたらしい。      4  鷹知は小川に一万円札を手渡して店を出た。まだ時刻は七時半だった。真鍋から教えてもらった番号へまず電話をかけた。 「もしもし、私は鷹知といいます。あの、鈴原|万里子《まりこ》さんですね?」 「はい……」不審そうな返事である。無理もない。 「怪しい者ではありません。実は、牧村亜佐美さんの事件のことで調べております。ちょっとお尋ねしたいことがありまして、お電話を差し上げました。ほんの少しですが、今、お時間は、よろしいでしょうか?」 「あ、はい……、何でしょうか?」少しだけ声が好意的になったかもしれない。 「牧村亜佐美さんと、横川敬造さんのことなんですが、あの事件のあった日に、お会いになっているそうですね」 「ええ」 「何時に、どこで会ったのか、簡単に教えていただきたいのです」 「それは、もう警察の方に説明しましたけれど」 「私は警察の人間ではありません。警察は、殺人事件の犯人を見つけるために捜査を行いますが、私は、牧村亜佐美さんの名誉を守るために調べております。彼女に不利益がないように、詳しい情報を集めているのです」  少々脚色をしたが、嘘のない言葉ではある。鷹知は幾つか質問をした。鈴原は、その日のことを語り始めた。鷹知は屋外にいたが、ポケットから手帳を出して、文字が書ける場所を探した。歩道に居酒屋の看板が置いてあったので、その上に手帳をのせてメモを取った。  鈴原万里子は、二十六歳、公務員だという。殺人のあったその夜、都内のホテルで牧村亜佐美のマジックショーがあった。食事をしながら観る形式のものだった。  ショーが始まったのは七時。終わったのが九時である。その一番最後のマジックは、給仕をしていたホテルのボーイが舞台へ呼ばれて上がり、手錠をかけられて箱に入れられる、そして、その箱に布が被せられ、最後にはボーイの代わりに牧村亜佐美自身が現れる、というものだった。たった今まで、舞台上に立ってマジックをしていた彼女が、箱に布を被せて一瞬だけ隠れる。すると、彼女が消えてしまう。そこでアシスタントたちが箱を開けると、手錠をかけられた牧村が現れたのだ。 「私は、横川さんを知っているので、気づいていましたけれど、そのボーイさんというのが、彼だったのです」鈴原はそう語った。 「その後、横川さんは舞台には登場しなかったのですね?」鷹知は尋ねる。 「ええ、ショーはそこで終わりましたから」  九時にショーが終わったが、まえまえからの約束で、ファンクラブのメンバ三十人ほどが、ホテルのラウンジで待っていた。そこへ、十時頃に牧村亜佐美が現れた。既に普段着に戻っていた。そのときにマネージャの横川も一緒に顔を出した。ファンのみんなは、彼がボーイの役をしていたのを知っていて、そのことを彼に言うと、横川は照れていたという。 「横川さんは、別のところへ顔を出さなければならないとおっしゃって、ラウンジから出ていかれました」 「何分くらい、そこにいたのですか?」 「えっと、最初だけです。そうですね、五分もいらっしゃらなかったと思います」 「横川さんを最後に見たのが、そのときということですね? 十時五分くらい?」 「だいたいですけれど、そうです」 「そのあと、横川さんはどこかで殺されたことになります」 「ええ、あ、えっと……、でも、十一時に電話がかかってきました。あの、横川さんからです」 「誰にですか?」 「牧村先生にです。私、そのとき、先生の横にいました、それで、話の途中で先生が電話を私に代わって下さったんです。ですから、横川さんと直接話をしました」 「どうしてです? 鈴原さんに用事があったのですか?」 「いえ、ファンの人にお願いがある、という内容だったんです。私じゃなくても良かったとは思います。たまたま、先生の一番近くにいただけです」 「どんな内容でしたか?」 「ええ、それが、今になってみると、ちょっと不思議だったんですけれど……」鈴原は、そこで数秒間黙った。話をまとめようとしているのだろうか。「横川さんは、駐車場にある先生の車まで、みんなで来てほしい、と言ったんです」 「ほう……」鷹知は少し驚いた。「何だと思いましたか?」 「なんか、私たちを驚かすような、うーん、びっくり企画かなって思いました」 「なるほど。その電話は、たしかに、横川さんでしたか?」 「それは間違いありません」  そこで、その場にいたファン全員でラウンジを出て、ホテルの地下駐車場へ見にいった、と鈴原は話す。もちろん、牧村亜佐美も一緒だった。ラウンジはホテルの最上階だったので、地下まで降りるときに、全員がエレベータに乗れない。結局、二組に分かれて、地下へ移動した。鈴原は牧村のすぐ近くにいて、ずっと離れなかったという。 「あの、そのときの三十人というのは、鈴原さん、全員をご存じなのですか?」 「はい、知っています。初めての人はいませんでしたから」 「えっと、三澤さんは、その中にいらっしゃいましたか?」 「三澤さん? いいえ」 「三十代前半の女性です」 「そのくらいの方は何人かいますけれど、三澤さんではありません」 「そうですか」彼は引き下がることにした。  駐車場には、マジックショーで使われた機材を納める大型のトラックがあった。ほかにも、ショーのスタッフのワンボックスカーが三台、それに牧村亜佐美の車があった。彼女は自分で運転をしてきたという。赤いボルボのステーションワゴンだった。お酒を飲んだから今夜は乗って帰れない、と彼女は話したという。車の近くに大勢が集まってしばらく待っていたが、誰も来なかった。二十分くらいそこにいたらしい。 「車の中を見なかったんですか?」鷹知がきいた。 「いえ、見ません。だって、鍵がかかっていますから。先生もご自分の車の鍵をお持ちじゃなかったんです。部屋に置いてこられたみたいでした」 「車の中に、誰かいませんでしたか?」 「わかりません。いなかったと思いますけど。あの、運転席と助手席は見えますけれど、どの車も、後ろはガラスが黒くなっていて、車内がよく見えないんです」 「それで、またラウンジに戻ったわけですね?」 「ええ、そうです」  戻ったのは十一時半頃だった。ラウンジが十二時で閉店になったため、この時点で牧村亜佐美を囲む会はお開きになった。ファンクラブの面々の大半がここで帰った。しかし、ファンのうち八人が、牧村亜佐美の部屋に一緒についていった。そのラウンジの二フロア下の部屋だった。アルコールを飲むのはやめて、コーヒーや紅茶、それにスナックを摘《つま》みながら話を続けたという。途中で、三人が帰って、最後は鈴原を含めて五人になった。気がつくと朝の四時になっていて、窓の外がうっすらと明るくなり始めた。そこで、ファン五人は牧村の部屋を辞去したという。 「電車が動くまで待って、家に帰りました」鈴原は話す。「先生も、朝にはご自宅に戻られたようです」 「車でですか?」 「たぶん、そうだと思います。もうすっかりアルコールは醒《さ》めていたと思いますから」  ホテルの位置は、牧村亜佐美の自宅から車で三十分ほどのところになる。その時刻ならば、もっと短時間で戻れたにちがいない。  鈴原は、これらをすべて警察にも話した。ファンクラブのほかのメンバも警察に事情聴取されたらしい。ただ、横川と電話で話したのは、彼女一人なので、そのことを何度も尋ねられたという。  鷹知は丁寧に礼を言って、鈴原との電話を切った。      5  八時半に、鷹知は警視庁の近くにある喫茶店のテーブルにいた。約束どおり、鈴木刑事が現れた。もう一人、鈴木よりも少し若く見える男が一緒だった。 「草野《くさの》といいます」その男が名乗った。四十代だろう。メガネをかけ、髪をわけている。学校の先生のようなタイプだ、と鷹知は思った。 「よろしくお願いします」鷹知は名刺を手渡して頭を下げた。 「で、どんな情報です?」草野がいきなりきいてくる。 「被害者の横川氏に婚約者がいたことは、ご存じですか?」鷹知は言った。  一瞬タイムラグがあった。警察は知らないようだ。 「本当ですか?」草野がトーンを下げて言った。 「牧村亜佐美のファンの一人です。僕は、その人から依頼されて、事件について調べることになりました。あの……」鷹知は両手を広げる。「誰なのかは、言えませんよ」 「それは教えてもらわなくては意味がない」草野が言う。 「そうですか? しかし、その彼女が事件に関係してるとは思えません。もし犯人だったら、捜査をしてくれなんて依頼しないと思いますよ」 「うん、まあ、それはそうだな」横に座っていた鈴木が頷いた。 「僕が関心があるのは、牧村亜佐美と横川氏の関係についてです」鷹知は話した。「いかがですか? 二人がどんな関係だったのか、どこまで突き止められましたか?」 「さあ……」草野は笑った。「本当のところはわからないですよ。でも、うん、まあ、仕事だけの関係ではなかったはずです。周囲から話を聞くとね。多数決ではそういうことになる」 「牧村亜佐美本人は、何と言っているんですか?」 「もちろん否定してる」 「では、牧村亜佐美と鷲津伸輔との関係はどうですか?」 「そちらの方が、情報はずっと多い」 「なるほど。となると、三角関係であった、というのは、まんざらではないわけですね」 「婚約者がいたとなると、そちらも別の三角関係になる」草野が言った。「ファンか……。ということは、あのホテルで、牧村と一緒にいた中の誰かってことですか?」 「そちらは、僕も把握《はあく》していません」鷹知は話す。「横川氏と最後に電話で話をした人ならば、当たりましたけれど。でも、彼女のことではありません」 「ほう……」草野の視線が鷹知にぶつかった。本格的に調べているのだ、ということが伝わったようだ。ついさきほど聞いたばかりのことだが、こうしたはったりが、この仕事では不可欠なファクタとなる。自分が実際よりも多くを知っている、と相手に思わせ、相手にとって有益な情報を持っていると錯覚させることが重要なのだ。簡単に言えば、知ったかぶりである。 「被害者は、携帯電話を持っていましたか?」鷹知は尋ねた。 「うん、持っていた。その牧村との電話は、彼からかけたものです。それが最後だった。その後も、牧村を含め、何人かから、電話がかかってきた記録が残っている。もう出られなかったというわけです」 「死んだのは何時ですか?」 「最後の電話が十一時頃。だから、少なくともそのあとですね」 「ホテルの地下駐車場へ来てくれ、と横川氏がみんなを呼んだわけですよね? そこに現れなかったのは、既になにかのトラブルに遭っていた、と考えて良いですね?」鷹知はきいた。 「そう見ることができます」草野は頷いた。 「それについて、牧村さんは何と?」 「申し訳ないが、そこまで、話さなくても良いと思うのですけどね」 「では、直接牧村さんにきいてみます。警察よりも、僕の方が話しやすいかもしれない」鷹知は微笑んでみせた。  横にいた鈴木がふっと鼻から息を吐いて苦笑した。草野は小さく舌打ちをしたようだった。 「牧村は、知らないと言っている」草野が言った。「なにかのサプライズだったのではないか、とは話していて、事前には聞いていなかったそうです。そういったことは、横川にはよくあったそうです」 「横川さんは、自分の車だったのですか? ホテルからどこへ出ていったんです? 足取りは掴めているのですか? あ、それともホテルの中にいたのですか?」 「いや、それがはっきりとはわからない。ホテルから出ていったところは目撃されていないが、自分の部屋に戻っていないことは確認されている」 「十時にはラウンジに来た。電話は十一時だった。一時間もどこで何をしていたんでしょう?」 「まったくわからない」草野は首をふった。  鈴木が煙草に火をつけた。しばらく沈黙があった。 「鷲津伸輔の方はいかがですか?」鷹知は別の質問をした。  草野は視線を上げ、鷹知を睨んだ。どういう意味かはわからない。彼は同僚の鈴木を一瞥したあと、再び鷹知を捉え、目を細めて言った。 「見つからない」それが答だった。 「え?」鷹知もびっくりした。「行方不明ですか?」 「うん」草野は頷いた。「今のところ」 「あれ、テレビに出ていませんでしたか?」鷹知は言った。そんな映像を見た記憶があったからだ。 「いや、それは事件のまえのものです。あの事件のあとは、誰も彼に会っていない。牧村も知らないと言っている。自宅にはいないし、別荘にもいない。もしかしたら、外国かもしれない」 「逃げている、ということですか?」 「さあね、とにかく、こんなことがあったんだから、もし日本にいたら出てくるでしょう?」 「そうですね」 「横川は、以前は鷲津の付き人をしていたこともある」 「重要参考人ですか?」鷹知はきいた。 「参考人」草野は言い直した。 「そうか……」鷹知は溜息をついた。「それは、困ったなあ」 「どうして?」鈴木が尋ねた。 「いえ、僕も、いろいろ話をききたいと思っていたので」 「今まで、探さなかったんですか?」草野がきいてきた。鋭い質問である。 「いえ、探しましたよ。できるかぎりのところは」鷹知は簡単に嘘をついた。「そうか、警察も見つけられないのか。それじゃあ、僕なんかじゃ、全然無理だったわけですねぇ」      6  翌日、鷹知は朝一番に牧村亜佐美の自宅へ電話をかけた。自分がマスコミの関係者ではない、ということを話すまえに二回電話を切られた。三回めには、警察の者ではないが、刑事に電話番号をきいてかけている、と話すことができた。これは嘘だったが、草野刑事の名前を出したので、なんとか話を聞いてもらえた。電話に出ているのは、女性の声だが、牧村本人ではない。家政婦のようだった。次に、牧村亜佐美のファンの鈴原と三澤の名前を出した。こういった人たちから話を聞き、調査をしている。牧村亜佐美に不利益がないよう、努力をしている者だ、とつけ加えた。十分後にもう一度電話をかけるので、牧村本人に伝えてもらえないか、と願い出た。  できるかぎりのジェントルな口調で話した。相手の反応から、話がすぐに伝わるだろうと自信はあった。牧村は在宅のようだ。ただ、相手にされるか、無視されるかは、フィフティ・フィフティに思えた。ファンの鈴原たちを家に入れたという話を真鍋から聞いていたので、その点が、五十パーセントの希望の主たる根拠だった。  きっかり十分後に電話をかけたところ、さきほどとは違う声の女性が出た。牧村亜佐美だとすぐにわかった。 「どんなご用件ですか?」 「鷹知と申します。十五分でけっこうですので、直接お会いしてお話が伺いたいのです」 「どんなご関係なのですか?」 「私は探偵です」 「探偵?」 「はい。ですから、どんな秘密も守ります。情報を漏らすようなことは絶対にいたしません。逆に、もし牧村さんがお知りになりたいことがありましたら、それをお調べいたします」 「どなたかが貴方を雇った、ということですか?」 「そういったお話も電話ではなんですので……」 「わかりました。いつがよろしいの?」 「今すぐでも参上いたします」  タクシーで牧村邸に直行した。インターフォンを鳴らして待っていると、年輩の女性が通用口を開けてくれた。 「電話でお約束をしました鷹知と申します」 「ご案内します」彼女は、無表情で頭を下げる。小柄な女性だった。五十代だろうか。  敷地内を歩く。まずは例のポールの方に目が行った。 「あ、あの、さきほど、電話に出られた方ですか?」鷹知はきいた。 「はい、私です」 「どうもありがとうございました。話を聞いてもらえて、助かりました」 「お切りして申し訳ありませんでした。その、この頃、そういった電話が多いものですから」 「いえ、当然です。お察しいたします」歩きながら、鷹知はポケットから名刺を取り出した。「鷹知といいます。探偵をしております」 「私にですか?」彼女は少し驚いた表情だったが、名刺を受け取った。 「よろしければ、お名前を教えていただけませんか?」 「井坂《いさか》と申しますけど」 「こちらには、もう長くお勤めですか?」 「いえ、まだ十年ほどです」 「そのまえは?」 「いえ、なにも」井坂は首をふる。「最初は、パートで、週に二日だけだったんですけど……」 「今は、毎日?」 「あ、ええ、ここに住まわせていただいております」 「あ、それじゃあ、あの日はびっくりされたでしょうね?」 「ええ、それは、もちろん。当然ですけど」  玄関を入り、ロビィの右手の部屋に通された。井坂は、すぐに出ていった。鷹知は周囲を観察しながら、しばらく待った。立ち上がると、ゲートから歩いてきた道が見える。駐車場も左手にあった。警察らしき人間は見当たらない。窓に近づくと、右手ぎりぎりにポールを視界に入れることができた。この屋敷は塀で囲まれているが、セキュリティはどの程度のものだろう。ちょっとした梯子があれば、塀を乗り越えて侵入することは可能だ。ただ、人間の死体を外部からこっそり持ち込むことは、普通に考えれば簡単ではない。 「お待たせしました」ドアが開いて、牧村亜佐美が入ってきた。白いブラウスに紺色のスラックス。そのまま舞台に出ても違和感のない化粧をしている。やはり一般人とは一線を画する華やかさが感じられた。 「はじめまして。お時間をいただき、ありがとうございます」鷹知は立ち上がり、名刺を差し出した。  受け取った名刺を見ながら、牧村は椅子に腰掛ける。それから、片手で鷹知に座るように促した。 「事件に関する調査ですか?」彼女はきいた。「警察と協力をして、ですか?」 「はい、そうです」鷹知は頷いた。「しかし、私が知り得た情報のすべてが警察に流れるわけでは、もちろんありません」 「でも、貴方の依頼主には流れるのでしょう?」 「いいえ」鷹知は首をふる。「依頼主に伝えられるのは、依頼主が欲しかった情報だけです」 「よくわからないけれど、その方は何を知りたいのかしら?」 「少なくとも、マスコミのような野次馬的な興味本位ではありません。その点はご安心下さい」 「私は、疚しいところはなにもありません。どこをどう調べていただいてもけっこうです。お話しできることは話します。自分の家の中で、身内の人間が殺されていたのです。この恐怖をご理解いただけるでしょうか? そういった当たり前の感覚が今のマスコミには欠如していると思います。私が言っていること、普通ではありませんか?」 「はい、そのとおりだと思います。恐怖の原因は、つまり正体不明の存在、ということになるのではないでしょうか?」 「そうね」牧村は頷いた。「誰かが、あれをやったんですものね。自然にああなったわけではない。事故ではありません。明らかに、悪意に満ちた行為です」 「悪意を感じますか?」 「当然です。横川さんに対するものはもちろん、それに、私に対するものも……。ええ、大きな憎しみを感じます」 「お心当たりがありますか?」 「いえ、まったく……」牧村は首をふった。「彼が殺されなければならなかった理由が、私には全然わかりません。危ないことをするような人ではありませんでした。その逆です。常に堅実で、人のことを思いやる、親切で誠実な人でした」 「横川さんは、独身でしたね?」 「ええ」 「結婚をするようなお話はなかったのでしょうか?」 「いいえ」牧村は抵抗なく首をふった。  鷹知はしばらく黙った。牧村は顔を上げて、彼を一度見て、また視線を逸らせた。 「失礼ですが……」鷹知が言いかけたとき、牧村も話した。 「おっしゃりたいことはわかります。若いときには、ほんの一時期だけですけれど、彼に対して、恋愛感情を持ったことがありました。でも……」彼女は窓の方を見た。ポールがある位置は、死角になって見えないはずだ。「それはもう昔のことです。お互いに、すっかり忘れている。痼《しこり》も残っていません。だからこそ、仕事のパートナとして、信頼の置ける人物でありえたのです」 「今は、代わりのマネージャが?」 「ええ、横川さんのように有能ではありませんが、これから仕事を覚えてもらうしかありません」 「あの、実は、鷲津さんを探しているのです。お話を是非伺いたいのですが……」鷹知は話題を切り換えた。 「知りません」牧村は即答する。 「あまり、連絡を取られない方なのでしょうか?」 「そうですね。滅多に会いませんし」 「以前からですか?」 「いえ、以前は、違います。そうですね、ここ一年くらいでしょうか。舞台にもあまり立たれなくなりました。体調でも崩されたのかと心配をして、連絡を取りましたが、べつにそういったことではないようでした」 「鷲津さんは、舞台では仮面をつけておられますが、素顔をご存じの方は、いらっしゃいますか?」 「少数だと思います」 「牧村さんは、ご存じなのですね」 「もちろん」 「姿を消されたとしたら、ご自身の意思、というか、計画的な行動だと思われますか?」 「そう思います」牧村は無表情のままで頷いた。 「今回の事件に、鷲津さんが関係している、という可能性はないでしょうか?」 「わかりません」彼女はそこで少し微笑んだ。やっぱりきいてきたか、という表情である。「どうして、私にそんなことがわかるでしょう?」 「横川さんと、鷲津さんの関係がどんなふうだったのか、という点については?」 「うーん。特にこれといって関係はなかったと思いますけれど」 「世間では、いろいろ噂をしています」 「ええ、知っています。根も葉もないことです」  歯切れの良い返答である。用意していたようにも見える。鷹知は、じっと彼女の目を見つめた。沈黙が数秒間続く。 「もう、よろしいかしら?」 「少々、情報を集めたいと思います。後日もう一度、お会いできますか?」 「これ以上きくことがあると?」牧村は小首を傾げる。 「お話しできることがあれば」鷹知は答える。 「早く事件を解決してもらいたいわ。あそこの前を通るたびに、つい見上げてしまいたくなるの。でも、絶対に見ないようにしています」      7  同じ日の午前十一時。小川令子はW大のキャンパスを歩いていた。ここへ来たのは、昨夜、鷹知と話したからだった。彼は、あのあと牧村のファンに電話をかけ、さらに警察へ足を運んで、数時間のうちに事件の情報の大半を集めた。それらの結果を深夜に電話で知らせてきたのだ。自分は酔っ払って帰ってきて、自宅でもさらに飲み直し、シャワーを浴びたあと、音楽を聴きながらリラックスしているところだったので、鷹知の行動の素早さに感心するとともに、自分の状況と比較してしまい、少々気が咎《とが》めた。しかも、明日は牧村亜佐美本人に会ってくる、と彼は言った。 「まあ、駄目もとで、行ってみようと思う」 「私にできることがある?」小川はきいた。  電話で話を聞いている途中、実は不思議に思ったのだ。どうして、彼はこんな詳しい話をしてくれるのだろう、と。同じ探偵業ではあるが、鷹知は、小川が所属している椙田の事務所の人間ではない。前回の事件では協力の要請があったので行動を共にしたけれど、基本的には商売敵といって良い関係だ。情報をくれるのは、もしかして、暗に協力を依頼されているということだろうか。そう考えて、尋ねたのである。 「いや、そういうつもりで話しているわけじゃないよ」鷹知は答えた。 「じゃあ、どうして?」 「え? あ、迷惑だったかな?」 「ううん、全然。迷惑なんかじゃないけれど。でも、仕事のことを話すのは、普通はいけないことなんじゃあ?」 「ああ、つい、同じ仕事仲間だと思っていた」 「いえ、それは嬉しいの。本当、知りたいことだったし」 「やっぱり、小川さんはもちろん、あと、真鍋君も、その、話をすると、なんとなく自分の考えも整理されるということに気づいたんだ。いや、違うなぁ、そんなふうに利用しているわけじゃなくて。うーん、なんていうのか」 「いえ、わかる気がする。私もそうだから」 「これまで、ずっと自分一人で仕事をしてきたから、うん、こうして報告ができる人がいるっていうのが、なんだか、良いことだなって思ってしまう」 「そうだね」 「また、聞いてもらえるかな?」鷹知が言った。彼にしては意外な言葉だった。 「あ、うん。もちろん」彼女は慌てた。 「夜、遅く、申し訳ない」 「いいえ、とんでもない」 「じゃあ」  そこであっけなく電話が切れた。そう、最近では一番のあっけなさだったと思う。  昨夜のその電話を思い出して、小川は溜息をついた。最後のあたりの会話、一つ一つの言葉が、鮮明に思い出せた。もう少し、なにか良い言葉をかけてあげれば良かった。ちょっと油断していたのではないか。若いときの自分だったら、もっと緊張感があって、ここぞというときに言いたいことをずばっと言えたような気がする。最近、どうもいけない。鈍っていると感じるのだ。べつにもう人生これで良いではないか、という諦めみたいなものに支配されつつある。  そんなこともあって、翌日、突然思いついて、W大の西之園助手を訪ねることにしたのである。事件の情報を集めるために、自分にできることはこれだ、と考えついた。  W大へ来るのは三回め。西之園を訪ねるのは二回めである。前回もそうだったが、アポは取っていない。会えるかどうかもわからない。けれども、今回は日持ちのするお菓子を土産として買ってきた。西之園が不在でも事務室に預けることはできる。研究室でなくても、事務室で食べてくれれば邪魔にはならないだろう。  建物の中に入り、階段を上がった。通路を歩く自分の足音が大きい。しんと静まりかえっていた。こういった雰囲気の場所は、小川が普段出入りするところでは少ない。静けさの質、静けさの重さが違うような気がした。やはり、学問には人類の歴史というのか、見えない重みが積み重なっているのではないだろうか。  ドアをノックした。中から高い声が聞こえたので、ノブを回して室内に入った。 「こんにちは」頭を下げる。 「あら」部屋の奥で、西之園が立ち上がった。「小川さん」 「お約束もせず、申し訳ありません」小川はもう一度頭を下げた。「あの、お忙しい時間ではありませんか?」 「いえ、大丈夫ですよ」西之園はこちらへ出てくる。薄い茶色のジャケット、スカート、短いブーツ、相変わらず上品なファッションだ。 「先日は、お礼を言いにきたのに、手ぶらで参りましたので……」小川は包装された箱を紙バッグから取り出した。 「もう、そんな、お気遣いなさらないで下さい」 「本当に、先日はありがとうございました。あの、つまらないものですが、皆様でお召し上がりいただければと」 「どうもありがとうございます。午後にゼミがあるから、では、喜んでいただきます」  先日と同じ場所に二人は座った。 「静かですね」小川は辺りを見回して言った。 「そうですか。休み時間になれば、賑やかですよ」 「あの、このまえも、突然で申し訳ありませんでした」 「ああ、いえ」西之園は微笑んだ。 「あの事件については、その後、なにか進展があったのでしょうか?」小川は尋ねた。いきなり今日の本題に入るのもどうかと思ったが、無駄話をするよりは良いだろうと考えたのだ。 「特には聞いていません。私も、あのときだけです。結局、関係がない、という判断じゃないかしら」 「何と、関係がないのですか?」 「ええ、つまり、私が過去に関わったことのある一連の事件と、今回の殺人事件は無関係だ、と警察は判断したようです」 「一連の、というのは、那古野の連続首吊りの事件ですね?」小川は尋ねる。それについては、インターネットで調べるくらいの下準備はしてきた。「高い場所で死んでいる、という点は、たしかに共通しています」 「そう。でも、今回は、明らかに他殺ですからね」 「私の友人が、この事件について、調査を依頼されました」 「依頼された、というのは?」 「彼も探偵なのですが、その、事件解決そのもの、というよりは、関係者の身辺調査みたいなものです」 「なるほど。あの人たちに投資をしている人がいるのですね」西之園は簡単に言った。そういう可能性があったか、と小川は驚いた。 「牧村亜佐美さんに投資をしている人が、彼女の身辺を調べたいと思った、そういうことですか?」 「単なる想像です。小川さんは、ご存じなのでは?」 「いえ、私は知りません。友達でも、そういうことは教えてもらえません。誰が調査の対象なのかも、よくわかりません」 「そうですか。あるいは、鷲津伸輔氏か」 「あ、ご存じなのですね。この頃、あまり見かけませんが、テレビでご覧になったのですか?」 「いえ、彼のことは、個人的に知っているだけです」 「え?」小川は驚く。「鷲津伸輔とお知り合いなのですか?」 「ええ」西之園は普通に頷いた。 「でも、マスクをしていますよね、あの……」 「もちろん、私が知っているのは、普段の彼です。マスクをしていない」 「それは、また……」小川は座り直す。躰が前に出てしまいそうだった。「凄いですね。どういったご関係なのですか?」 「いえ、べつに、以前からのお友達といいますか、それほど親しいわけではありませんけれど、でも、ほんのときどき、お話をしたりする程度ならば」 「最近は、いつ会われましたか?」 「それ、警察にもきかれたんですけれど、もう、そうね、一年くらいまえ。まだ私、那古野にいて、ちょうど、那古野で彼のショーがあったから、観にいったんです。そのときにちょっとだけ」 「その後は、電話などはなかったですか?」 「ええ、ありませんね」 「失礼かもしれませんけれど、今回の事件と関係があるのか、ないのか、いろいろ取り沙汰されていると思いますが、西之園先生はどんなふうにお考えでしょうか?」 「べつに、なにも考えていません」西之園はそこでにっこりと微笑むのだ。この話がそんなに可笑しいだろうか、と不思議に思ってしまったほどだった。「でも、そう、少し興味がわきました。時間があったら考えてみます」 「この件で、またご相談に伺ってもよろしいでしょうか?」 「メールをいただけると嬉しいです。調査で出かけていることが多いので、ここへいらっしゃっても、私がいないことがあるといけませんから」 「調査? どんな調査ですか?」 「あ、いえ、研究のための調査です。田舎の町で、古い建物の調査をしています」 「それがご専門なのですね?」 「以前は違いましたけれど、こちらへ来た機会に、自分にとって新しい分野にも手を広げていこうかなと思いまして……。これまでは、コンピュータばかり相手にしていたんです。でも、もともとは、私の恩師が手がけていた領域ですので」  その後、大学の関係の話を五分ほどした。西之園は赴任したばかりで、そのまえはN大学の大学院生だった。博士号を取得して、すぐにW大の助手に採用された。というよりも、実際にはその逆で、W大の話があったので、慌ててドクタ論文を書いた、と彼女は笑って話した。助手は、正式には講義を持つことはできないので、今は授業は演習だけを担当しているという。教員が不足している関係で、来年にも准教授にさせられ、講義を受け持たなくてはならない。会議も増えるから、今よりもずっと忙しくなるだろう。だから、今年のうちにせいぜい方々へ足を運んで、沢山のものを見てきたい、と彼女は語った。それを話すときの西之園は、遠くに視点が向かい、ほんの少し眩《まぶ》しそうに目を細めるのだ。活《い》き活《い》きとした人間のエネルギィを感じた。彼女の前に輝かしい未来が開けていることがよくわかった。  小川は時計を見て、西之園の部屋を辞去することにした。二十分ほどの会談だった。  戸口で別れ際に、小川は質問を思い出した。 「そうでした。一つ、おききしたいことがありました」彼女は、片手で握り拳を作っていた。「西之園先生、なにか武道をなさっていらっしゃいますね?」 「ええ……」西之園は小さく口を開けて、笑顔になった。「あんな、はしたないことをしたからですね?」 「いえ、とんでもない。おかげで私は怪我をせずに済みました」 「ずっと、子供の頃から、合気道を習っておりました」 「合気道ですか?」 「小川さんは、空手ですか?」 「え?」 「もしかして、習い始めたところ?」 「あ、あの……、実は、そうです。どうしてそれを……」 「拳の握り方。親指の曲げ方」微笑んだまま、西之園は答えた。「そのうちに歩き方まで変わってきますよ。お気をつけになった方が良いわ」 [#改ページ] 第3章 そして虚飾が陰り [#ここから5字下げ]  彼女は、ほとんどためらわずに、名前を挙げた。それは、記憶の闇《やみ》の中を探ったとき、この世あの世の人間の数限りない名前がまぜこぜになった中から、真っ先に見つかったものだった。彼女はその名に投げ矢を命中させ、蝶のように壁に留めたのだ。彼女がなにげなく挙げたその名は、しかし、はるか昔からすでに宣告されていたのである。 [#ここで字下げ終わり]      1  鷹知祐一朗は、正式に三澤宗佑の調査依頼を受けることになった。翌週には、椙田の事務所を訪ね、小川と真鍋にも協力を依頼した。ただし、具体的なノルマがあるわけではない。情報があったら是非知らせてほしい、といった程度のものだった。  一方、小川たちには、珍しく仕事が入った。ボスの椙田が電話で連絡してきた用件で、得意先へ出向き、美術品とリストを照合してこいという内容だった。小川はその日の午後に真鍋を連れて、都内のある商社のビルを訪ねた。社長が退職し、社で保有していた美術品の幾つかを整理する、という話を聞いた。その日は、品目どおりの品物が存在し、状態に問題がないかをチェックした。どんな点に注意をすれば良いかも、椙田から具体的な指示を受けていた。  事務所に戻ってから、小川は報告書のためのメモを簡単にワープロで作成した。真鍋はお茶を沸かし、ソファのところで待っている。帰ってくるときに、駅前で弁当を買ってきた。インスタントの味噌汁も買った。それらは小川の奢りである。そのために、真鍋はハイテンションになっているのだ。 「味噌汁がついているっていうのは、一種の憧れなんですよね」彼はしみじみとした口調で言った。「幸せだなぁ」 「そう、それは良かったね。味噌汁くらいで幸せになれて」 「なんか、食事として完結しているじゃないですか」 「結婚したら、奥さんに作ってもらうと良いわね」 「いやぁ、そういう将来像は、ちょっと持っていませんでした。想像外ですね。たぶん、それは無理だと思います」 「どうして? 今どきの女の子、味噌汁なんか作ってくれないから?」 「いえ、なんとなく、インスタントの方が美味しそうな気がするんです。一度、自分でも作ってみたことがあるんですけど、どうも気が抜けたみたいな味しかしなかったから」 「ふうん、まあ、それはそうかも。料亭で出てくる味噌汁とか、濃くて、美味しいものね」 「そうなんですか」 「私は、あまり塩辛いのは好きじゃないけれど。男の人って、味噌汁に拘《こだわ》る人多いよね」 「僕は、拘らないことにします」  仕事を切り上げて、ソファで弁当を食べた。味噌汁も熱いお茶も出ている。今は音楽はかかっていなかったが、自宅で一人で食べるよりは楽しい。 「あの事件もその後、進展なしですね」口をもぐもぐとさせながら真鍋が言った。「鷲津伸輔を捜しているんでしょうか?」 「どうかなぁ。それよりも、警察はもう犯人の目星がついていて、その人物の周辺で捜査をしているのかも」 「あ、アリバイ崩しとかをしているんですね、きっと、コロンボみたいに」真鍋は言った。「怪しいとわかってはいるけれど、トリックがあって、アリバイが崩せない。だから逮捕できないわけです」 「それはどうかしらないけれど……」小川は微笑んだ。「アリバイっていうと……、えっとぉ」 「牧村亜佐美さんが、そうですよ」真鍋が箸を振って言った。 「ああ、そうか。そうだね」 「今まで気づかなかったんですか?」 「だって、そんなふうに考えもしなかったから」 「駄目ですねぇ。まず、身近なところから疑ってかからないと」 「たとえばさ、どんなふうなトリックがありえるわけ?」 「アリバイのトリックというと、うーん、まあ、いろいろありますけどお」 「誰かに頼んで殺してもらった、というのは、含まれないの?」 「駄目ですよ、そんなの。人に頼んだら、弱みを握られるし、よけいに危険じゃないですか」 「一番簡単だと思うけれど」 「お金もかかりますし、だいいち、殺す意味がなくなります」 「どうしてなくなるの?」 「だって、お金のために殺すんですからね」 「え、そうなの? お金のための殺人だったわけ?」 「だいたいそうですよ。カッとなって殺したわけじゃないでしょう? その人がいたら自分には不利益になる、つまり、お金じゃないですか。金銭的な問題で殺さなくてはならなくなったわけですから、人に依頼するような金があったら、なんとかなったかもしれない、と考えるのが普通でしょう?」 「普通かなぁ。うーん、でもね、たとえば借金が一億円もあって、もうにっちもさっちもいかなくなって、借りた相手の人を殺そうと考える。それで、二千万円で請け負ってくれる殺し屋に頼むっていうのは、ありえるんじゃない?」 「殺し屋なんていう便利な稼業があれば、ですけどね」 「そういうのがネットで横行しているみたいな報道があったわよ」 「後腐れなく殺してくれませんよ。そんな、二千万円くらいで」 「まあねぇ、それに、あんな高いところへ上げてくれるなんて、オプションとしては破格だよね」 「ああ、あれはオプションだったんですね」真鍋は笑った。 「サービスではやってくれないでしょう?」 「ちょっとやりすぎですよね」真鍋は頷いた。 「でもさ、やっぱりお金だと思う?」 「ええ、恨みで殺すなんて、ありえないですよ」真鍋は断言した。「よく、日本のドラマとか小説とかに出てきますけれど、憎らしかったら、喧嘩したら良いじゃないですか。文句を言ったら良いじゃないですか。それとも、裁判に訴えるとか、マスコミに訴えるとか、うーん、ネットで暴露《ばくろ》してやるとか、いろいろ手がありますよね。相手を殴るなら、まだわかるし、酷い目に遭わせるってのも、わかりますよ。でも、殺してしまうっていうのは、どうですか? 死んじゃったら、もうなにも感じないわけですよね。それじゃあ、恨みが晴れないんじゃないかなぁ。たぶん、昔は、地獄へ行くとか、死後も精神がどこかで生きている、みたいな考えがあったから、仇を討つために殺すっていう発想が出てきたんだと思うんですよ。でも、今はそんなふうに考える人って、いないんじゃないかな。たとえばですよ、最愛の人を殺されても、その加害者を殺してやろうって思いますか? その加害者の最愛の人を殺すという仕打ちなら、うん、まだわからないでもないけれど、本人を殺しちゃったら、全部無に帰してしまうわけでしょう? どうも、仕返しとして成り立っていないように思えます。僕は理解できませんね」 「うん、なるほど、なかなか説得力のある意見だね」小川は頷いた。聞いていて、それなりに筋が通っていると思った。ただ、全面的に受け入れることはできない。「うーん、でも、何かなぁ、どこか、賛同できない気持ちもあるのよね。文句は言いたいけれど、じっと我慢をしなければならない立場っていうのも、大人になると普通にあると思うわけ。そうなるとね、文句を言うようなレベルを通り超してしまって、限界を超えたときには、もう相手を抹殺するしかない、というところまでいってしまうのよ。そういう感じじゃないかしら」 「カッとなって殺すというんじゃなくて、計画的な殺人を犯すっていうのは、凄く冷静な判断ですよね。そういうことができる人物が、どうしてほかの方法を考えられないんでしょうか?」真鍋は言う。「殺すとなったら、自分にも危険が及びますよね。よほどうまくやっても、殺して終わりってわけじゃない。自分の人生が台無しになる可能性があって、ずっとびくびくしていなければならないわけです。それらを引き換えにしても相手を殺したい、と思うでしょうか? そのまえに、もっと合法的にでもやり方はないでしょうか? いえ、合法的でなくても良くて、殺さないまでも、もっと相手が困ることをする方法ってあると思うんです。あからさまな嫌がらせをすれば良いと思うんです。殺す気になれば、できますよね? 何故、そういうステップを飛び越えて、いきなり究極のところまでいっちゃうんですか?」 「まあ、それは、つまり冷静じゃないってことね」小川は言った。「私はわかるな。殺人の計画はできるし、偽装工作もできる。冷静に計画を練ることができる。でも、その人物に対する感情は、もうとにかく殺してやりたい、という気持ちでいっぱいなのよ。全然冷静じゃなくて、頭に血が上っているのと同じ状態。人間ってね、君が思っているほど単純じゃないわけ。感情と論理的思考は、別の頭で考えているみたいな」 「そうか、CPUが一つじゃないわけですね」 「そうそう」 「そうなのかぁ。僕なんか、まだ、そこまで複雑になれていませんね」 「無理に複雑にならない方が良いのよう。単純なままでいられるなら、その方がずっと幸せ」小川は微笑んだ。「あ、その後さ、あの子とは、どうなの?」 「あの子? 誰のことですか?」 「ほら、すらっと背の高いモデルさんの」 「ああ、永田さん」真鍋は頷いた。「いきなり話題を変えないで下さいよ」 「進展は?」 「さあ、会っていませんから」 「講義は?」 「うーん、講義に来ていても、会わないことだってありますよ。席が離れていたらわからないし。五十人以上いるんですからね。どうして、急にそんな話するんですか?」 「いえ、なんとなく、聞いてみたかったから。その子は、味噌汁作ってくれそうにないかもね」 「小川さん、会っていないのに、想像できるんですか? あ、そういえば、すらっとしているなんて、どうしてわかるんですか?」 「そりゃあ、モデルをしているくらいなんだから」 「そんなことわからないじゃないですか。太ったモデルさんもいますよ」 「なに、むきになってるの?」小川は笑った。「一度、会ってみようかな、その彼女に」 「え、どうして?」 「あと、ほら、もう一人のファンの子にも」 「ああ、鈴原さん」真鍋は頷いた。「あの人には、そうですね。鷹知さんはもう会いにいっていますよ、きっと」 「そうだね。電話をすぐにかけたって言ってたもんね」      2  永田絵里子が行方不明になっているのではないか、という不安は、電話をかけたら、あっさりと消えた。 「なんだ、真鍋君」 「あ、今、いけなかった?」 「大丈夫だよう。デート中だって電話くらい出られるから」 「デート中なの?」 「たとえ話だよ、馬鹿じゃない?」 「あのね、ちょっとお願いがあるんだけれど」 「え、何なの? 真面目な話?」 「え? うん、まあ、そこそこ真面目だけど」 「うわぁ、聞いちゃおうかな」 「あのね、僕のバイト先の人がね、えっと、永田さんと、鈴原さんに会いたがっているんだけれど、なんとか時間をつくってもらえないかな。お食事くらい奢るそうだよ。高いところじゃないと思うけれど」 「その人、どんな人? 真鍋君、どこでバイトしているの?」 「あ、えっと、探偵社」 「タンテーシャ!」 「そうだよ」 「何、タンテーシャって。どんなことするの?」 「いろいろ調べたりとか」 「ふうん。私たちのことを調べるわけね?」 「違うよ。事件のことで情報を集めているだけ」 「事件って? あ、ああ、あの事件かぁ。ひやぁ、忘れかけてたわぁ。そうかそうか、このまえ、真鍋君にメールしたよね。税務署みたいなとこから電話がかかってきたって、鈴原さん、言ってたよ」 「税務署じゃないと思うよ。そう、うん、その人も、知り合いの探偵だよ」 「ああ、良かったぁ。あとで、すっごい、私、落ち込んだもん。教えちゃいかんかったって」 「あ、そうだね。ごめん、ちゃんと説明しなくて」 「大丈夫なのね? ちゃんとした人だったのね?」 「うん、心配ないよ」 「良かったぁ」 「鈴原さんとは、その後、会ったか、話したかした?」 「ううん、してない。じゃあ、ちょっと電話してみるね。いつが良い、明日でもオッケイ?」 「いつでも良いよ」  しばらくして、彼女から電話がかかってきたのは、事務所を出て、小川令子と二人で駅へ向かって歩いている途中だった。 「明日の六時で」永田はいきなり言った。「場所はどこ?」 「鈴原さんって、仕事してるんだよね。どこにいるの?」 「新宿の方」 「それじゃあ、新宿で。えっと、南口でいい?」 「オッケィ。何をご馳走してくれるの?」 「それは、これからこちらで決めるけど。なにかリクエストとかある?」 「私、イタリアンがいい」 「わかった」 「探偵の人って、男の人?」 「違うよ。うちの事務所の女の人。大先輩だけど」 「ふうん、なあんだ。鈴原さん、電話してきたのは、男だったって言ってたけど」 「うん、その人とは別」 「明日、大学来る?」 「えっと、特に決めてないけれど」 「このまえのさ、北島の課題、どうした?」 「ああ、まだこれからだよ。本を読んでいるところ」 「凄いじゃん。私なんか、本が見つからないもの。それで、相談しようと思ってたの。教えて教えて。駄目?」 「べつにいいよ。じゃあ、明日、六時よりちょっとまえに会おうか?」 「ありがとう。うんと、じゃあ、一時間まえくらい?」 「一時間まえね。うん」 「新宿で五時。電話するから」 「わかった。じゃあね」  電話を切った。 「なになに?」小川が顔を近づけてきいてきた。「どうしたの? 一時間まえに何をするの?」 「べつに……、ちょっと」 「べつにちょっと何をするの?」 「いいじゃないですか」 「あぁらぁ、この子ったら、反抗期?」 「反抗してますか? あ、そういえば、ぐれて、親とかを殺す子供いますよね。ああいうのが、本当に犯行期ですね、ほら、ハンコーが犯すの方の」 「何ぶつぶつ言ってるわけ? 怪しいなあ」 「切れて、母親とか殺したりするじゃないですか」 「わかった、切れないでくれる? そういう話じゃないでしょう? ね、永田さんって、可愛い?」 「会えばわかりますよ」 「あっら、自信あるぅ」 「そういう意味で言ったんじゃありません。やたら絡みますね、この件で、小川さん」 「一つだけ言わせてもらうと、大先輩の大は余分だよ。あと、その人って言ってたの、鷹知さんのこと?」 「ええ、そうです。鷹知さんに鈴原さんの電話を教えたことを、永田さん、心配してました」 「まっとうな子じゃないの。うん、若いのに偉いわ」  どうも、小川はなにかと永田絵里子のことを評価したいみたいだった。  帰宅してから、真鍋は課題に取り組むことにした。明日、永田からそのことで相談を受ける、と思うと、俄然やる気がわいてきた。不思議なもので、寝るまえには、ほとんど完成の域に達していたし、彼女に譲れるネタをリストアップするくらいの余裕レベルに至った。もしかして、自分はこの才能があるのではないか、と思いつき、ベッドで横になったときには、この才能とは具体的にどんな才能なのか、という問題に取り組んだが、テーマは宇宙軌道を無音で離れていくように遠ざかった。  翌日の午前中は洗濯をして、部屋の掃除を軽くした。昼ご飯を作りながら、事務所に一度電話をかける。小川が出て、昨日見にいった美術品のリストを作っている、と話した。真鍋が書いたメモで読めないところが二箇所あったので、それについて尋ねられた。 「こっち、来ないの? 今日は」小川がきいた。 「ええ、行くつもりでしたけれど、またすぐに出ないといけないから、直接行くことにします」 「ふうん。わかった、じゃあ、新宿で六時ね。電話かけるから、ちゃんと出てね」 「出ますよ」  その後三時間ほどは、片づいた部屋でベッドに寝転がって本を読んだ。そのうち少し眠くなって三十分くらい寝てしまった。起きたときには焦ったが、時間はまったく大丈夫だった。  今から出かけたら、新宿に一時間も早く着いてしまう、という時刻だったが、部屋にいるのにも退屈してきたので、彼は着替えをして出発した。  新宿駅の雑踏を歩きながら考える。どこで時間を潰そうか、それとも、少し早いけれど、永田に電話をかけてみようか、と。目は面白そうな店はないか、と探している。デパートの方へ自然に足が向いていた。ふとガラスの中に、男の靴が見えた。見たことのある靴だ。見上げると、喫茶店の窓際の席に座っている男。サングラスをかけ、帽子を被っているが、彼だとわかった。テーブルの反対側には、知らない女性がいる。ガラスに近づいて、手を振ったが、こちらを見ていない。どうしたものか迷ったけれど、真鍋は店の中へ入っていった。 「こんにちは」テーブルに近づいて、彼は軽く頭を下げる。  男がこちらへ振り返った。サングラスで表情はよくわからない。しかし、にこりともしなかった。万が一人違いだったら、という可能性を初めて思いつき、一瞬で不安が広がったが、二秒後に、その彼の口が斜めになった。見慣れた形だ。椙田にまちがいない。 「どうして、俺だってわかった?」椙田が低い声できいた。 「わかりますよ」真鍋は微笑んだ。 「そうか……、気をつけた方が良いな」 「どうしてですか?」 「お忍びなんだ」椙田の口もとが緩んだ。  テーブルの向こう側にいる女性を真鍋は見る。彼女も色のついたメガネをかけていた。煙草を片手に持っている。年齢は椙田と同じくらいか。しかし、一般人には見えない。女優か、それとも芸術家か、そんな艶がある。煙草を消したら、立ち上がってシャンソンを歌いそうな雰囲気だった。 「もしかして、奥さんですか?」真鍋は、小声で椙田にきいた。 「違う。いいから、もう帰れ」椙田も息を殺して言った。「ここで会ったこと、俺が誰といたのか、話すなよ」 「誰にですか?」 「特に小川さんだ」 「ああ、はい。焼き餅を焼くからですね?」 「え? ああ、まあ、そういうこともある」 「僕は誰と会ったんですか?」 「俺だけに会った」 「秘密のデートですね?」 「いいか? 真面目な話だぞ」椙田は舌打ちをした。 「はい」真鍋は頷く。 「どうして、こんなところをうろついているんだ?」 「今から、僕もデートなんですよ」真鍋は冗談っぽく言った。 「え?」彼は上着のポケットに手を入れながら立ち上がった。「本当か?」  真鍋の前に立つ。椙田の方がずっと長身である。札入れを取り出し、一万円札を真鍋に差し出した。 「な、何ですか? これ。もしかして、口止め料?」 「馬鹿。ちゃんと奢るんだぞ、女の子には」椙田が言った。「ところで、相手は女なんだろうな?」 「ええ、いちおう」 「いちおう?」 「あ、あの、夕食は……」真鍋は話そうとした。  夕食は小川が奢るという約束になっている。しかし、そのときに、この金を使った方が良いな、と真鍋は考えた。その方が事務所の経費として適当だろう。 「もう、いいから……」椙田が立ちはだかるように、真鍋に圧力をかける。 「わかりました。じゃあ……。あ、これ、どうもありがとうございます」  相手の女性にも挨拶をしたかったが、フリーキックのときの壁みたいに椙田が躰で阻止した。店を出て、もう一度だけ振り返ったけれど、既に二人はこちらを見ていなかった。あれは、きっと椙田の妻か、それに準じる女性なのではないか、と真鍋は確信した。そうでなかったら、あんな態度は取らないはずだ。というよりも、見た感じ、そういう雰囲気というか、確かな空気があった。ファッションや、風貌、年齢、すべてが椙田と不思議にバランスが取れていたように思う。それはそれとして、とにかく、一万円も出すとは凄いな、と真鍋は感心した。太っ腹である。書店で画集や写真集を見ているうちに、三十分が過ぎた。まだ十五分ほどあるな、と思っていたとき、電話がかかってきた。永田絵里子からだ。 「はいはい」真鍋は電話に出る。 「どこにいる? 私、もう着いちゃったけど」 「僕も新宿にいるよ」      3  小川令子は、出かけるまえに、リスト作りを終えることができた。事務所の戸締まりをしてから外に出て、歩きながら真鍋に電話をしようと思い、携帯電話のモニタを見た。時刻は五時半。今頃、真鍋はガールフレンドと会っているはず。電話をしたら邪魔だと思われるにちがいない。また余計なことを言ってしまいそうだ。やめておこう。なんとなく、自分が真鍋の姉になった気分だった。  新宿には六時きっかりに到着した。改札を出たところで、真鍋から電話がかかってきた。 「小川さん、電話かけました?」 「ううん。今着いたところだよ」 「こちら、もう揃ってますよ」  すぐに合流した。真鍋は、二人の女性と一緒だった。永田絵里子は、予想以上に美人で長身、かなり目立つ風貌。これは、ちょっと真鍋には無理では、と心配になる。一方の鈴原は、大人しそうな女性で、小柄。永田とは対照的だった。  小川が知っている店に案内した。スパゲッティとピザの店である。予約の電話を入れておいたので、奥のコーナで落ち着けるテーブルだった。 「改めまして、今日はどうもありがとうございます」小川は鈴原に頭を下げた。「先日は鷹知さんが電話をかけたそうですね。彼も、この事件のことで調べています。マスコミのような野次馬的な動機ではありません。調べたことを勝手に発表したりはしないとお約束できます。その点はご安心下さい」 「はい」鈴原は頷いた。 「鷲津伸輔のこと、鈴原さん知らない?」永田が普通のおしゃべりの感じできいた。おそらく、真鍋から事情を聞いたのだろう。 「いえ、私は……」鈴原が首を横にふった。  飲みものは、四人ともアルコール。ピザを摘みながら、主に小川が鈴原に質問をした。もう一度、事件のあった夜について話してもらった。牧村亜佐美のマネージャ・横川敬造を最後に見たとき、そして、鈴原が彼と電話で話をしたときの様子についてである。鷹知から聞いていたことなので、これらは単に確認だった。 「そうなると、その駐車場に現れなかった時点で、もう横川さんは殺されていた、という可能性が高いですね」小川は言う。「そのとき、どこにいたのか、が問題ですけれど」 「近くにいたはずだよね」永田が真鍋の顔を見て小声で言った。 「いや、それは限らないよ」真鍋が否定する。 「どうして? だって、駐車場に来いって言ったんだよ」永田が反論。「自分もそこに行ける範囲にいたんじゃない?」 「いや、もともと、そこに行くつもりはなかったかもしれない」真鍋が言った。「駐車場といえば、車があるわけだから、その車の中になにかが置いてあった。そこへ行けば、それを見せられる。遠くにいても、それを手渡すこともできる、と考えていた」 「でも、手渡せなかったわけでしょう?」永田が口を尖らせた。 「もう一度、電話をかけてくるつもりだった、ということ?」小川は真鍋に尋ねた。 「そうです。みんなが駐車場へ行ったところで、また、電話をかけてきて、どこどこを開けてごらん、と指示するわけです。そこに、たとえば、思いもかけないプレゼントがあるとか」 「それよりも」鈴原が珍しく発言した。三人は彼女を注目する。「あの、横川さんは、もっと驚かすような仕掛けを用意していたと思います」 「驚かすような、というと?」小川は尋ねる。 「わかりませんけれど、つまり……」 「マジック?」小川はさらにきいた。 「そうです」鈴原は頷いた。 「その場合でも、その場に、横川さんがいる必要はないんじゃないですか?」真鍋が鈴原に言った。 「それはわかりません。でも、驚かすのなら、そこにいるんじゃないでしょうか?」 「どうして?」 「うーん」真鍋の質問に、鈴原は考え込んでしまった様子だ。 「それは、やっぱり……」小川は自分の考えたことを話す。「驚いた顔を見たい、という動機でやっていることだから、その場にいなかったら、やる意味がない、ということなんじゃないかしら」 「そんなの、遠くにいたって、たとえば、ビデオカメラを置いておけば見られますよ」真鍋が言う。「あ、そうか、駐車場にビデオカメラがあったんじゃないかな」 「あ、そうね」小川も気づいた。 「とっくに警察が調べていますね」真鍋は溜息をつく。 「横川さんっていう方は、そういう、なんていうのか、ショーマンシップ旺盛な人だったんですか?」小川は鈴原にきいた。 「はい、そうだと思います。とても、ファンのことを大事にされていて、私たちみんなにも、いつも親切でした」 「横川さんと親しいファンは、誰かいませんでしたか?」 「さあ……」鈴原は小川の質問に首を傾げた。 「おつき合いのありそうな、女性のファンとかは?」小川はさらに突っ込んだ質問を投げかける。  鈴原は口を結び、首を横にふる。小川はそれをじっと観察した。そんなプライベートなことは、おそらく人には話さないだろう。なにしろ、横川は殺されたのだ。関係があったなんて知れたら、面倒なことになる。小川は、そんな想像をした。 「鷲津伸輔については、どうですか? 彼のファンは、牧村さんのファンとは、交流はないのですか?」小川は尋ねる。 「よくわかりません。あまり、そういう話をしたことがないんです」鈴原は答える。「私自身は、鷲津伸輔のショーを見にいったことはありません。以前に一度、牧村さんのショーに特別出演されたことがあって、ご本人を見たのは、そのとき一度だけです」 「両方のファン、という人がいませんか?」小川はきいた。 「いるかもしれませんけれど、私は知りません」 「鷲津伸輔って、仮面をつけているんですよね」真鍋は言った。「素顔は誰も知らないのかな?」 「はい、たぶん」鈴原は頷いた。 「そうだよ、テレビ局へ来るときも、もう最初から仮面をしているんだから」永田が言う。 「でも、目のところだけでしょう」小川は話した。「口も髭も見えているわけだから、わかるんじゃないかなぁ、仮面を取っても」 「いやあ、わからないですよ。印象が変わりますからね」真鍋は言った。「椙田さんだって、サングラスをしているだけで、わからないでしょう?」 「わかるわよ。そんなの」小川は笑った。真鍋の挙げた例が面白かった。「あ、あの、椙田さんっていうのは、うちの事務所のボスなんです」ほかの二人に彼女は補足した。「つまり、ちゃんと、焦点を合わせて、その人の顔を見ている人には、ある程度はわかる、ということね」 「焦点を合わせて、というのは?」真鍋がきいた。 「興味を持って見るってこと」小川は答える。「つまり、愛を持って見るっていっても良いわね」 「よくわかりません」真鍋が吹き出した。 「うーん、とにかく、鷲津伸輔が、やっぱりなんらかの関与をしている、と見るのが妥当でしょうね」小川は呟くように言った。 「行方が知れないからですか?」真鍋がきいてきた。 「そう」小川は頷く。 「たとえば、鷲津伸輔が、実は横川さんだった、という可能性はないですか?」真鍋は鈴原の方を見て言った。  真鍋のその発想には、小川も思わず息を止めてしまった。 「いえ、そんな……」鈴原も目を大きく見開いて、驚いた表情になった。 「殺されちゃったから、姿を見せられないだけかも」真鍋が言う。「同一人物だったんですよ」 「なわけないでしょ」ピザのチーズを伸ばしていた永田が真鍋に一言。「隠し通せるわけないじゃん」 「年齢が合わないんじゃない?」小川は意見を言う。「面白い発想だとは思うけれど」 「そうかなぁ……。あ、これいいですか?」真鍋はピザの最後の一切れに手を出す。 「うーんと、つまり、もともとは、鷲津伸輔という人はいたんですよ、本当にね」そこでピザを一口食べる。「で、そのあと、どこかへ行っちゃったんです」 「どこへ?」永田が横からきいた。 「まあ、チベットとか、モンゴルとかへ、逃避行」真鍋はピザを食べながら話す。 「なんで、そういう話になるん?」永田が笑った。 「で、とにかく、鷲津伸輔がいなくなったから、横川さんが、仮面をつけて、彼の代役をしていたわけ。まあ、身内だし、もともとは鷲津伸輔の付き人だったわけでしょう? 弟子みたいなもんじゃない。だから、一番適任だったというか。そういう経緯で図らずも、横川さんが鷲津伸輔になってしまったと」 「で、今回の事件と、どう結びつくの?」永田が尋ねた。 「うーん」唸《うな》りながら、真鍋はピザを全部口の中に入れ、片手を広げた。「ちょっと待って」 「あの……」鈴原が発言したので、小川と永田は彼女の方へ顔を向ける。「その、真鍋さんの言っていること、そんなに、その、ありえないことでもないと思います」 「え、そうなの?」小川は驚いた。 「はい、あの、鷲津伸輔は髭を生やしているんですけど、髭さえつけて同じ仮面をつければ、横川さん、鷲津伸輔に似ていると思います。どうしてかというと、実は、そういうトリックを使ったマジックを、ずっと昔になさっていた、という話を、私、聞いたことがあるんです」 「ほらほらほら」真鍋が声を上げる。「でしょう?」 「体格も、似ているんですか?」小川は尋ねる。 「はい。見た感じは、同じくらいです」鈴原が答える。 「たぶんさ、鷲津伸輔が、自分に似ている人を、マジックに使えると思って、スカウトしたんじゃないかな」真鍋が言った。 「じゃあ、まあ、そこまでは、良いとして」小川は真鍋を見た。「もし、そうだとすると、横川さんが殺されたのは、どうして? あんなポールの上に掲げられたのは、どうして? なにか説明がつく?」 「全然関係ないんじゃないでしょうか」真鍋は答えた。 「関係ない?」小川はきき直す。「鷲津伸輔が犯人じゃないわけ?」 「ええ」彼は頷いた。「それは、明らかに論理の飛躍というものです」 「あ、そう……」小川は息を吐いた。「さっきの同一人物っていう方は、飛躍じゃなくて?」 「今回の事件は、横川さんに恨みがあったか、横川さんがこの世にいては自分が不利益を被る、と考えた人が、彼を殺しただけです。ポールの上に引っかけた理由はわかりません。単に、目眩《めくら》ましというか、攪乱《かくらん》作戦かもしれませんからね。ただ、もしかしたら、一部の人にとっては、あれがなんらかのシンボル的な意味のあるもので、それによって、メッセージとして伝わっている、という可能性はあります」 「うん、それって、ありそう」永田が真鍋に指を向ける。「えっとねえっとね、たとえば、昔、中国雑技団に所属していたんだよね。で、そのときにリンチかなにかがあって、誰かが殺されちゃうわけ……、ほらほら、そんな感じでしょう?」 「そうそうそうそう」真鍋が頷いた。 「あのぉ、私には全然わからないんですけど」小川は身を乗り出して、二人に言った。 「つまり、そのときの仕返しをするために、グループが一人ずつ殺されるんだよね?」  真鍋が永田に言う。 「そうそう。それで、これは雑技団のあのときの怨念なのだぞ、みたいなふうに見せるために、ポールの上にのせたんですよ」永田は小川を見て説明をする。「ほかのメンバは、それで今頃、恐怖におののいているわけです」 「ああ、なるほど……」小川は苦笑する。「少年漫画にありそう」 「でも、殺人犯自体が、そういう子供っぽい人だったら、本気でやるかもしれませんよ」永田が言った。 「まあねぇ」小川は密かに溜息をつく。真鍋を睨んでやろうと思ったが、彼はテーブルに運ばれてきたスパゲッティの方を見ていたので、叶わなかった。  大きな皿で二種類のスパゲッティが並ぶ。真鍋と永田が、小皿にそれらを取り分け始める。 「今の話、どう思いました?」小川は隣の鈴原に小声で尋ねた。 「面白いとは思いますけれど」鈴原は答える。「でも、とても現実的とは思えません」 「そうよねぇ。良かったぁ、普通の人がいて」小川は微笑んだ。 「鷹知さんを、小川さん、よくご存じなのですか?」鈴原がきいてくる。 「ええ、もちろん。彼が、なにか?」 「探偵の方が捜査をしているってことは、誰かが、この事件について調べてほしいって、鷹知さんを雇ったわけですね?」鈴原は言う。「小川さんたちも、そうなのですか?」 「私たちは、違います」小川は首をふった。「鷹知さんが、お友達だから、できるかぎり協力をしてあげようかなって、そう思っただけで、お金をもらって仕事として動いているわけじゃ全然ありません」 「鷹知さんを雇ったのは、たぶん、三澤さんだと思います」鈴原は言った。 「三澤さん?」 「はい、お友達です。私よりも少し歳上で、あの日も、同じショーを観ていました」 「牧村亜佐美のショーですね?」 「そうです。彼女もファンクラブのメンバなんです」 「三澤、なんておっしゃるの?」 「えっと、有希江《ゆきえ》さんです」 「三澤ユキエさん?」小川の思考はそこで止まった。その名前に聞き覚えがあったのだ。そのあと、頭の中で、何度も名前を繰り返した。しかし、珍しい名前ではない。同姓同名の単なる偶然だろう、と判断した。 「その人も、ショーのあと、ずっと一緒だったんですか?」真鍋がスパゲッティの皿をこちらへ渡しながらきいた。 「ええ」鈴原は頷く。「でも、横川さんが帰られて、そのあと、三澤さんもいなくなりました」 「え?」小川はひっかかった。「いなくなった?」 「ええ、知らないうちに消えていました」 「どういうことですか?」 「え、つまり、店から出ていったんだと思います」 「誰も見ていなかったのですか?」小川は尋ねる。 「うーん、私は見ていなかった、という意味です」 「横川さんは、五分くらいしかいなかったんですよね? そのあと、すぐに三澤さんも消えたということですね?」 「わかりませんけれど、三十分くらいしたとき、私は気づきました。彼女がいないって……。でも、ああ、そうか、と思いました」 「どうしてですか?」小川は首を傾げる。話が急に核心に迫っているように感じられた。聞き逃してはいけない、と緊張する。 「横川さんと、三澤さんは、その、たぶん……」鈴原は話した。「私の想像ですけれど、おつき合いをしていたんだと思います。誰もそんな話はしていません。彼女もそんなこと言いません。でも、わかります。横川さんの話ばかりするし、彼の方ばかり見ているし。横川さんも、いつも三澤さんを見ています。だから、私は、きっとそうなんだろうなって、以前から思っていました」 「なるほど。でも、二人は一緒に出ていったわけではないのですね?」 「ええ、違います」鈴原は答える。「そんな、みんなにわかるようなことはしません。内緒にしているんだと思います」 「それじゃあ、三澤さんがいなくなったのは、彼のいるところへ行ったのだろう、と思われたのですね?」 「だって、普通に帰るのならば、みんなにもそうだし、牧村先生に言いっていくのが普通です」 「そうですね」 「私、彼女がいなくなったことを、牧村先生に言うべきかなって考えました。でも、やっぱり、先生には失礼になるかもしれないと思って、黙っていることにしました」 「牧村さんは、気づいていたかもしれないですね」小川は言う。 「はい。そうかもしれません」 「で、そのあと、牧村さんに、横川さんから電話がかかってきたのですね?」 「そうです」 「三澤さんがいなくなったのに気づいてから、電話までは、どれくらいの時間でしたか?」 「そうですね……、二十分くらいでしょうか」 「牧村さんが電話に出て、そのあと、鈴原さんにも、その電話を渡したのですね?」 「そうです」 「どうしてですか? よく、そういうことがあったのでしょうか?」 「いいえ、わかりませんけれど、横川さんが、そうしてほしいと言ったみたいなんです。ファンの誰かと電話を代わってほしいって。たまたま私が、先生の一番近くにいただけです」 「どんな感じでした? 横川さんは、電話に出たのが鈴原さんだって、わかっていましたか?」 「わかっていたと思います」 「名乗ったのですか?」 「はい。鈴原です、と言いました。横川さんは、私のことをご存じですから……。そう、そのとき、私、きっと三澤さんのことをきかれるんだろうと、思いました」 「ああ、三澤さんが、そこにいるかって?」 「はい、そうきかれると思いました。でも、全然違いました。ファンの人も、みんな牧村先生と一緒に、駐車場へ見にきてほしいっておっしゃるんです」 「横川さんは、いつもどおりだった?」 「ええ、特に変わったふうには感じませんでした」 「近くに誰かいるみたいだった?」 「わかりません」 「牧村さんは、そのとき、どんな感じでした? 機嫌が悪そうだったとか、そういうことは?」 「先生は、ちょっとだけお疲れの様子でしたから、横川さんの電話で、何なの? わざわざ行かなければならないわけ? って、そうおっしゃっていました」 「ふうん」小川は頷く。「三澤さんは、横川さんと一緒にいると思いました?」 「思いました」鈴原は頷いた。「もしかして、二人は一緒に現れるんじゃないかって、そんな気もしました」 「なるほど。でも、誰も現れなかった。三澤さんとは、その後、会いましたか?」 「いいえ、会っていません」 「電話は?」 「いいえ」 「警察には、三澤さんのことは、話しましたか?」 「いいえ」鈴原はまた首をふった。「だって、三澤さんが困るといけないから」 「うーん、でも、それはちょっとまずいんじゃないかなぁ」小川はそうは言ったものの、よくわからなかった。どうも、さきほどの名前にひっかかる。「さっき、鈴原さん、鷹知さんを雇ったのは、三澤さんじゃないかっておっしゃったでしょう? あれはどうしてですか?」 「三澤さん、お金持ちなんです」鈴原は即答した。 「ああ、なるほど」小川は笑顔をつくって頷く。「一つの理由ではあるかな」  ただ、ますます別のことを考えてしまう。 「ちょっとごめんなさい。三澤ユキエさん、ユキエは、どんな字ですか?」 「ああ、えっと、変わっているんです」鈴原は掌に指で文字を書いた。「有る無いのユウに、希望のキ、あと、江戸のエです」 「ああ……、そうですか。えっと、もしかして、お父様は、三澤グループの三澤宗佑さん?」 「いえ、それは知りませんけれど、とても有名な方らしいです。えっと、沢山の会社を持っていて……」 「ああ、やっぱり」 「私が警察に言わなかったから、三澤さんのところへは警察が行っていないと思います。だから、事件のことを心配して、横川さんを殺した人を見つけたいと思われて、探偵さんを雇ったんじゃないでしょうか?」 「そうですね、ありえますね」小川は頷く。「でも、探偵を雇うくらいなら、警察へ出ていって、事情を説明した方がいいんじゃないかしら」 「自分のことを話しても、自分が疑われるだけで、犯人を見つけるような証拠は、彼女の身近にはないのかもしれません。そう考えれば……」 「そうか……」小川はもう一度頷く。鈴原の言っていることは常に筋が通っている。この事件のことを彼女なりに深く考えた、ということが窺い知れた。  真鍋と永田は、もうスパゲッティを平らげていた。こちらをちらりと見る。こうしてみると、二人は兄弟のように似ている気がした。ああ、案外お似合いかもね、と小川は感じた。そう思うと、にっこりと笑みがこぼれる。  だが、視線を隣の鈴原に戻すと、そこには、また事件へつながる不可解な犯罪の影が横たわっていた。      4  食事が終わり、鈴原と永田は駅の方へ帰っていった。小川は鷹知に会う約束があった。それを知っているからか、真鍋が自然についてくる。 「永田さんと一緒に帰らなきゃ」小川は真鍋にそうアドバイスしたのだが、真鍋は微笑んだまま無言だった。 「何なの? 気持ち悪いなあ。にやにやして」 「さっきの食事代、いくらでした?」 「えっと、一万二千円くらい。美味しかったね」 「経費で落とすんですか?」 「当たり前じゃない。私が自腹を切ると思った?」 「いえ、じゃあ、今度は、僕が奢りましょうか?」 「は? 誰に?」 「小川さんに」  小川は立ち止まって、真鍋を見据える。 「気は確か?」 「ええ、まあ、だいたいなら」 「おかしいな。酔っ払った?」 「いつもいつも、ご馳走になっているから、ちょっと、お茶くらいとか、軽く一杯くらいなら、奢りますよ」 「へえ……」驚いた。肺の空気が全部外に出そうだ。彼女は時計を見た。「鷹知さんと会うまで、まだ一時間以上あるけどね」  少し歩いて、知っている店があったので、そこに入ることにした。ジャズ喫茶である。  テーブルに着くと、真鍋が身を乗り出して、小川にきいた。 「ここ、高くないですか?」 「高いわけないでしょう。喫茶店だよ。心配するなって」 「そうですか。暗いし、雰囲気悪いですね」 「逆。君の感覚が反対」  メニューが届き、二人はコーヒーとデザートを頼むことにした。まえの店では、甘いものを食べなかったからだ。 「良かったぁ。良心的な値段でしたね」真鍋が微笑む。 「本当に奢ってくれるの?」小川はきいた。 「大丈夫です。そのつもりです」真鍋は自分の胸を軽く叩いた。 「ありがとう。嬉しいわ」小川は笑顔をつくる。 「知っている店ですか?」 「うん、昔、彼とよく来たかな」 「へえ……、十年くらいまえ?」 「そうね……」小川は店内を見回した。ほとんど変わっていない。「いえ、そんなに経ってないかも」  飲みものとデザートがテーブルに運ばれてきた。小川は熱いカップに口をつける。トランペットの速いテンポの曲がかかっていた。もう少し大きくして聴きたいところだが、それでは話ができなくなる。 「うるさいですね、ちょっと」真鍋が言った。 「うるさくないよ」小川は微笑んだ。「どうして? おねえさんに、大事な話でもあるのかな? 永田さんのことでしょう? 相談にのってあげるぞ」 「永田さんのこと? どんな相談ですか?」真鍋が首を傾げた。 「会って、どんな話をしたの?」 「レポートのことですよ。ちゃっかりしているから、彼女。まあ、べつに、いいですけどね、人に教えても自分が損をするわけじゃありません」 「それはさ、君に関心があるからだよ」 「違いますよ」 「真鍋君としては、どうなの?」 「何がですか?」 「永田さんのこと」 「ああ……」真鍋は口を開けたあと、微笑んで首を横にふった。「いえ、全然です」 「全然大好きとか?」 「なんか、そういう方向へ持っていきたがりますよね。若者を見ると、とにかく色恋沙汰の話しかできない中年って多いと思うんですよ。あれはどういう心理なんでしょうね? 自分たちの欲求不満を若者に投影しているんですか?」  小川は黙った。真鍋をじっと睨みつける。 「あれ、怒りました?」  もう少し黙っていることにした。真鍋から視線を逸らし、アイスクリームにスプーンを入れる。 「小川さん?」真鍋が呼んだ。  彼女は上目遣いに再び真鍋を見る。 「怒らないで下さいよう」真鍋が両手を合わせる。「言い過ぎだったら、謝りますから」 「怒ってないようだ」口を尖らせて、顔を斜めにする。 「とにかく、永田さんのことを、変なふうに見ないで下さい」 「大事な人だから?」小川はすぐにきいた。 「ほらぁ」今度は真鍋が怒った顔になる。「また、そういうふうに」 「でも、美人じゃない?」 「奢るのやめようかなぁ」 「わかったわかった」小川は微笑んだ。「じゃあね、もっと大人の会話をしよう」 「大人の会話? ていうか、違う話をしましょうよ」真鍋はチョコレートパフェの底をスプーンで探っていた。「まあ、永田さんも綺麗だけれど、それよりも、西之園さんの方が美人ですよ。美人といったら、ああいう感じですよね」 「違う話? それ」 「三澤さんの話を、鷹知さんにするかどうか、ですね」 「え?」今度は話題が本当に変わったので、小川は驚いた。「どうして? 当然、するつもりでいたけれど」 「小川さん、よく知っているみたいでしたね」 「あ、ええ……、ちょっとね」 「でも、もし、本当に三澤さんが、鷹知さんの依頼主だったら、鷹知さん、困らないですか?」 「困る? どうして?」 「だって、僕たちには、知られたくなかったことでしょう?」 「うーん」小川は腕組みをした。「しかし、それはしかたがないんじゃないかなぁ。ああ、そうか、つまり、鈴原さんが想像した三澤さんと横川の関係については話さないで、三澤さんというファンが、途中でいなくなっていたことを鈴原さんが話してくれた、と事実だけを伝えれば、問題ないんじゃない?」 「あ、そうか。鷹知さんの方が言っても良いと判断すれば、そこで、実は依頼主はっていう話になるかもしれませんね」 「そうそう。そうね。余分な部分は言わない方が良いな、やっぱり。ありがとう」 「その三澤さんに、会わないと駄目かなって、きいてみたら、わかりますよ」 「え?」 「いや、それは僕が会ってくるよ、と言うか、それとも、そうだね、鈴原さんから、連絡先をきいてみてもらえないかな、と僕たちに依頼するか、鷹知さんがどちらに出るかで、依頼主かどうかがわかると思います」 「ああ……。君ってさ、そういうことになると、よく頭が回るよね。感心する。本当。今のは凄いと思った」 「えへへ、そうですか? あんまり自覚ないんですけど。そうかな、ああ、なんか、この才能を活かす方法はないでしょうか」 「活かしていたら、今頃、留年してないか」  真鍋は口を尖らした。 「やっぱり奢るのやめようかなあ」 「あのさ、そんなに奢ることをもったいぶってちゃ、価値が半減だよ。男だったら、ずばっと黙って金を出しなよ。そんなさ、奢るよ奢るよなんて言ったり、やっぱりやめようとか、せこいこと言わないの。こんなの、数千円じゃないの。私が出すから、もう言うなよ、そういうことを」 「ごめんなさい」真鍋は頭を下げた。「あの、実は……」 「何?」 「僕のお金じゃないんです」 「どういうこと?」 「えっと、実は椙田さんからもらったんです」 「え? いつ?」 「うーん、ちょっとそれは言えないかも」 「言いなさい。私は社員なの。知る権利があるわ」 「いやあ、その、ついさっき、駅でばったりと」 「本当に?」 「ええ」 「どうして、椙田さんが、お金をくれたの?」 「いえ、女の子には奢ってやれって」 「は?」小川は口を開けた。次の瞬間には笑いたくなったが、ぐっと堪える。「ああ、もしかして、永田さんのことを話したのね?」 「いいえ、言いませんよ、そんなこと。ただ、僕も今からデートだって」 「僕も? あ、椙田さんも女連れだったのね?」 「ああ……」真鍋は顔をしかめた。「なんということを……」 「どうしたの?」 「急に頭痛が……」 「いつの時代のコントよ、それ」  真鍋は舌打ちしている。よほど自分の失敗に腹が立ったのだろう。 「小川さんも、そういうことになると、頭が回りますね」 「良いよ、べつに……」小川は笑った。「椙田さんが、女と一緒にいたって、私、全然困らないし、関係ないし。でもね、内緒にするっていうのが、水くさいじゃない」 「いえ、そんな、べつに、僕は。うーん、とにかく、椙田さんから一万円をもらったんですよ」 「えっ!」小川は驚いた。「一万円もくれたのぉ」 「金額には敏感なんですね」 「おっどろいた驚いた。一万円? それってどういうことお? ちょっと、どんな女だった? もしかして、西之園さんじゃなかった?」 「違いますよ」 「絶対?」 「仮面をしていたって、見間違えませんよ」 「いくつくらいの女?」 「駄目なんですよ、言っちゃあ」真鍋は首をふった。 「そうか、もしかして、奥さん?」 「え、奥さん、いるんですか、椙田さん」 「知らない。でも、それくらいの年齢の人だったのね。若かったら、仮面をつけたら、わからないかもしれないもんね」 「髪形でわかりますよ」 「怪しいなあ、椙田さん、どうして新宿なんかにいたのかしら。都内にいるのなら、事務所に顔を出してもらいたいわよね。女と一緒にいる時間があるなら、仕事をしてほしいわよね」 「でも、仕事かもしれないじゃないですか」 「そんな感じだった?」 「いえ」真鍋は首を一度横にふって、すぐに止めた。  小川はアイスクリームを食べた。しかし、その低温による頭脳への刺激のせいなのか、突然思いついた。 「あ!」もう少しで立ち上がるほど自分でもびっくりした。  真鍋がスプーンの上のクリームをテーブルに落とした。 「どうしたんですか?」彼は顔を上げて小川を真っ直ぐに見た。 「いえ、凄いこと思いついちゃった」小川は話す。自分の声が震えているのがわかった。 「驚かさないで下さいよう。そんなことで」 「まだ、どんなことか、言ってないって」 「クリームこぼしちゃったじゃないですかぁ。ああ、驚いた」 「聞いたら、絶対にびっくりするから」 「そんな、小川さんの思いつきくらいで、びっくりしませんよ」 「あのね、鷲津伸輔の正体は……」小川は真鍋に顔を近づけて囁いた。「椙田さんなの」  真鍋は口を開けた。しかし、声は出なかったようだ。 「ほら、似ているでしょう?」 「ええ」彼は顔をしかめる。「まあ」 「髭は同じだし、背格好も、年齢も」 「そうかな」 「それにね、決定的なことがあるわ」 「何ですか?」 「西之園さん、鷲津伸輔と知り合いなのよ」 「ええ、聞きましたよ」 「でも、最近はずっと会っていない……」小川はそこで大きく頷いた。「すべてが合致する。謎が解けたわね」 「あの、わからないんですけど」 「良いの、わからなくて」 「西之園さんを、椙田さんが避けていたってことですか?」 「そう。偶然とは思えないわ」 「ちょっと待って下さい。となると、今回の事件にも、椙田さんは関わっているんですか?」 「いえ、そうじゃないと思うけれど、でも、警察やマスコミが来るといけないから、姿を晦《くら》ましているわけ」 「椙田さんなら、だいぶまえから、ずっと姿を晦ましていますけど」 「だから、君に見つかってびっくりしたわけよ。一万円を渡して口止めしたのね」小川はまた何度か頷いた。「変装してた?」 「いえ、サングラスでした」 「どうやって見破ったの? あ、わかった……、靴か」 「ええ、そうです」 「椙田さんも、不用心よね、いつもあの靴だもんね」 「同じのを三つくらい持っているそうですよ」 「へえ、そうなの?」その話は小川は知らなかった。「しかしなあ、鷲津伸輔が椙田さんだとすると、いろいろ説明がつくわね」 「たとえば、どんな説明が?」 「ときどき、マジックショーをやって、お金を稼いでいたのよ。探偵なんて、世を忍ぶ仮の姿だったのね」 「それ、逆じゃないですか。マジシャンが仮の姿なんじゃあ……」 「どっちでも良いけど、うーん、ついに私たちに正体を知られてしまったわね」 「いえ、違うと思いますよ、僕は」      5  ジャズ喫茶の支払いは、真鍋がすることになった。 「レシートをもらってきてね」小川は彼にアドバイスした。  レジから戻ってきた真鍋がレシートを彼女に手渡し、二人は店を出た。 「レシート、どうするんですか?」 「うちは、全然|儲《もう》かっていないみたいだから、関係ないんだけれどねぇ」小川は溜息をついた。「こんな不景気な会社だと思わなかったわよ」 「僕なんか、そもそも会社だとも思っていませんよ」  鷹知祐一朗と待ち合わせの場所へ向かった。地下鉄に乗れば一駅であるが、夜風に当たりながら歩くことにした。少々運動をしたい過多なエネルギィ状況だったこともある。  大通りの歩道を二人は歩いた。まだ十時まえ。道路はタクシーばかり、歩いている人間は少なくない。 「やっぱり、こういうときは、冷静になって初心に返るというか、原点に立ち戻って考えてみる必要があると思うんです」真鍋が歩きながら話した。 「突然、何の話?」 「だから、事件ですよ」 「私の評価としては、まだ原点から一歩も進んでいないように思うんだけれど」 「なんだかんだいって、高く持ち上げた理由というのは、単純に、低いところには置いておけなかったから、じゃないでしょうか?」 「低いところに置いておけなかったって……、どうして?」 「目立つからです」 「高いところの方が目立つわよ」 「朝になれば、でしょう?」真鍋は言った。 「あ、そうか……」小川は彼の顔を見た。それから、空を見上げた。ビルの壁に窓が整列している。それらが遠近法で、小さくなりながら空へ向かっている。「上なんか見ないか」 「暗かったら、足許《あしもと》を見ますよね。照明されているのも、低いところだけです」真鍋は言った。 「ということは、えっと、どうなるの?」 「二ついえると思います」真鍋はVサインをするように片手を見せた。 「お、出たね」小川は微笑む。 「まず、牧村さんの家のあの場所を、夜中に通る人がいて、犯人は、その人に死体を見られたくなかった」 「それは、そうだね。その人から隠すために、高いところに上げたんだ」 「そうです」真鍋は頷く。  真鍋はしばらく黙っていた。二人はその間に十五メートルほど進んだ。 「二つめは?」小川は話の先を促した。 「僕も、変だなとは思うんですけど……」真鍋は難しい顔をして首を捻っている。 「何なの?」 「つまり、犯人は……、死体を移動することができなかった」真鍋は言った。 「え? 持ち上げられないっていうこと?」 「うーん、たぶん、そうです。一人では、死体を移動できない。そんな力がない。引きずっていって、隠すことができるなら、そうしたはずなんですよ」 「ちょっと待って」小川は片手を広げて、真鍋の方へ差し出した。「引きずることよりも、あそこのポールに持ち上げる方が、ずっと力がいるじゃない」  また、しばらく、黙って歩く。小川は我慢して黙っていた。真鍋は考えているようだ。 「変ですよね」真鍋が呟くように小声でいった。 「変だと思うよ」小川は即答する。 「じゃあ、何だろう……、もしかして、僕が間違っているんでしょうか?」  それを聞いて小川は吹き出した。 「面白いよね、君って」  鷹知と約束した店に到着する。パブのようだった。小川の知らない場所である。真鍋にいたっては、この種の店に入るのが初めてだと言った。  小さな店の奥で既に鷹知が待っていた。ほかには客は一組だけで、テーブルも離れている。 「こんばんは」二人は挨拶をして、鷹知の対面のシートに並んで座った。 「夜遅く、悪いね」鷹知は低い声で言う。 「流行っていませんね」真鍋が身を乗り出して、彼に囁いた。この店のことのようだ。 「いつも空いている店を沢山知っていることが、けっこう大事なんだ」鷹知は言った。 「何に大事なんですか?」真鍋が追及したが、鷹知は答えなかった。  鷹知はビールを飲んでいた。小川はセーブするために、ノンアルコールのものをメニューから探した。真鍋もジュースを注文した。  小川がまず、鈴原万里子と会って話してきた内容を鷹知に伝えた。そして、三澤有希江という名のファンが、パーティから姿を消していたことを最後につけ加えた。真鍋と打ち合わせたとおりの情報の伝え方を、小川はした。彼女は、鷹知の表情をじっと観察していた。しかし、彼はまったく表情を変えず、煙草を吸いながら、小川の話に聞き入っているだけだった。 「こんなところだったね?」小川は、真鍋に確認をする。真鍋は無言で頷いた。嬉しそうな顔をしているが、それはいつものことである。 「なるほど」鷹知は小さく頷いた。「最後のファンの話は、新しい情報だな。それは、警察も知らないかもしれない」 「鈴原さん、警察には話していないそうです。ほかのファンの誰かが話したかもしれないけれど」 「ちょっと、調べてみるよ」 「心当たりがあるの?」小川はきいてみた。 「いや」鷹知は簡単に首を横に動かした。  マスタがカウンタから出てきて、二人の飲みものをテーブルに並べた。 「なにか、進展がありました?」小川は鷹知に尋ねる。 「まあ、そうだね。地道に進んではいるよ」鷹知は煙を吹き出し、煙草を灰皿で揉み消した。「鷲津伸輔はまだ見つかっていない。自宅にも別荘にもいない。警察が調べたようだ。最近までいた痕跡がある。やはり、事件の関連で姿を消したと考えても良いと思う。それから、警察からの情報では、牧村亜佐美のスタッフの車が一台、行方不明らしい。ホテルの地下駐車場にあったものが消えていた。前日の十一時頃に駐車場から出ていったらしい。ナンバを自動認識するシステムなんだよ。機械にその記録が残っていたんだ。横川がそれを運転して出ていったのか、それとも、彼を殺した人間がそれで逃げたのか、そのいずれかだと警察は考えているようだね。車を探しているけれど、まだ見つかっていない。ワンボックスのタイプらしい」 「その車で、牧村さんの家まで横川さんを運んだのかしら」小川はきいた。 「たぶん、そうだろう」鷹知は頷く。 「なんか、複雑ね」小川は溜息をついた。 「いや、もともと単純じゃないよ、この事件は」鷹知は口もとを緩めた。「しかし……、そのいなくなったファンは、ちょっと重要だな。横川さんとなにか関係があるかもしれない」 「あの日、牧村さんの家には、誰もいなかったんですか?」真鍋が質問した。「牧村さんはいなくても、家政婦さんとかが、いたってことは?」 「ああ、うん。その夜は、井坂さんという家政婦さんがいた」鷹知は答えた。 「だったら、夜のうちに、死体を運んだ車がやってきたら、気づくんじゃありませんか? もしかして、ゲートを勝手に開けられるんですか?」 「そう、スタッフの車には、牧村邸のゲートを開けるリモコンがのっていたらしい」鷹知は答える。「マジックの機材を運ぶことが多かったから、ゲートと、それから、倉庫というか、ガレージのシャッタを開け閉めするリモコンが、スタッフの車にはいつものっている。だから、わざわざ、家政婦さんを起こさなくても、庭に入るのも、倉庫に入るのも、自由にできたわけだね」 「深夜に、その車に乗って死体を運び入れたわけですね」小川は言った。「尋常じゃないわ、そんなことをするなんて」 「人殺しだからね」鷹知は言った。「尋常じゃないよ」 「それで、ポールに死体を上げて、その車は去っていったわけでしょう? 犯人も、その車で逃走している、ということ?」 「警察は、そう考えている。全国手配しているようだ。でも、見つからない。どうも、なんというのか、組織的な犯行かもしれない、という可能性が出てくるね」 「暴力団とか?」小川は顔をしかめる。「そういったところと、関係があったの?」 「わからないけれど。ショービジネスだからね。ありそうなことだ。ないとはいえない」 「ふうん」小川は溜息をついた。「だったら、やっぱり、あれは見せしめだったとか」 「僕もそう思う」鷹知は頷いた。 「うーん」真鍋が声を上げた。腕組みをしている。 「何? どうしたの、唸っちゃって」小川は彼を覗き見た。 「ちょっと眠くなってきましたねぇ」真鍋は言った。 「子供?」小川は吹き出した。「まだまだ早いよ」 「さっき、お酒を飲んだから」 「少しじゃない」 「早く帰って寝たいです」真鍋は目を瞑った。 「ちょっと、寝ないでよ。駄目、目を瞑っちゃ」  真鍋は腕組みをしたまま、動かなくなってしまった。 「真鍋君、今日、彼女とデートだったの」小川は、鷹知に囁いた。「気疲れしたんでしょうね、きっと」 「違います」横で真鍋が言った。 「なんだ、起きているじゃない」小川は笑ってそちらを見た。 「眠たいっていう状況は、すなわち、起きている証拠ですよ」 「理屈|捏《こ》ねちゃって、また」 [#改ページ] 第4章 またも虚脱を語り [#ここから5字下げ] 胸腔の刺し傷は二つだった。ひとつは右の二番目の肋間《ろっかん》で、肺まで傷《いた》めていた。もうひとつは左の腋《わき》の下の際《きわ》にあった。さらに腕と手の六ヵ所に小さな傷があったほか、右の股《もも》と腹筋にそれぞれひとつずつ水平に切られた傷が認められた。それから右の掌《てのひら》に、深い刺し傷ができていた。それは報告によれば、「キリストの五つの傷のひとつに似ていた」 [#ここで字下げ終わり]      1  鷹知祐一朗は時計を見た。十二時をとっくに回って、日付が変わっていた。その時計は、古い友人からプレゼントされたもので、もう十年以上使っている。一年まえに一度故障をして、修理に出したことがあった。時計というやつは、夜だって休むことができない、辛い仕事だな、と同情する。  三澤宗佑の屋敷だった。まえと同じ部屋に通された。電話をかけておいたので、もちろん突然の訪問ではない。でなければ、こんな時刻に来るのは非常識である。否、たとえアポが取ってあっても非常識にはちがいない。だが、小川と真鍋と別れたあと、彼はすぐに三澤に電話をかけた。相手は忙しい身で、なかなか掴まらなかった。結局、こんな時刻になってしまったのだ。  ドアが開いて、三澤宗佑が入ってきた。スーツにネクタイという予想外のファッションだった。 「今さっき、戻ったところでね」彼は言った。肘掛け椅子に腰掛ける。「で、なにか、進展でも?」 「警察は牧村さんのスタッフが使っていた車を追っています。ホテルの駐車場から消えていたからです。横川さんがその車で牧村邸へ運ばれた可能性もあります」鷹知はそこで言葉を切って、三澤を見た。 「それで?」紳士は目を細めただけだった。 「もしそうならば、死体をポールに引き上げてから、車は、再びどこかへ出ていったことになります。その後どこへ行ったのか、見つかっていません」 「うん、なるほど」 「ご存じでしたか?」 「私がかね? 知っているわけがない」三澤は小さく笑った。 「そうですか……」 「それだけかね? それを言いに、わざわざ来たのか?」 「そうです」鷹知は頷いた。 「あまり、その、大した進展とは思えない。私が君に依頼していることは……」 「いえ、承知しています。もし、ご存じないのであれば、一度、お嬢様にお会いして、お話を伺わせていただけないでしょうか。お嬢様がご存じかもしれませんので」鷹知は言った。  三澤は黙った。じっと鷹知を見据えている。 「警察は、どこまで知っている?」やがて三澤は尋ねた。 「わかりませんが、警察は車を見つけられません。想像ですが、おそらく、私の方が知っていると思います」 「警察が知る可能性は?」 「予想できません。しかし、私が数日で知りえたことです」鷹知は言った。「もしお嬢様の立場を心配されているのなら、先手を打って、それなりの手段を講じる必要があると思います」 「君は有能だな」 「私を雇ったのは、警察がどこまで知っているのかを探らせるためだったのですね?」  鷹知はきいてみた。 「身の危険を感じなかったかね?」三澤は少し笑った。 「いえ、慣れています」鷹知も微笑み返す。「僕の口を封じることは、三澤さんにとっては、今最も危険な選択です」 「いや、悪かった。そんな脅《おど》しをするつもりはない」三澤は首をふった。「そういうふうに聞こえたとしたら、謝ろう。私は、君を信頼している。それから、同じように、娘のことも案じているし、信じている。なんとしても守りたい。晒し者にしたくはない。最初にそう言ったとおりだ」 「はい、承知しています」 「どうすれば良い?」 「お嬢様に会わせていただけますか?」  三澤は目を瞑った。五秒間ほどだった。 「わかった」彼は目を開けて、頷いた。「呼んでこよう」  三澤は立ち上がり、部屋から出ていく。ドアを閉めるとき、鷹知の方へ一度鋭い視線を送った。  部屋に一人残されて、鷹知は考えた。自分はこれから殺されるのではないか、と。ここへ来ていることを、誰かに知らせておくべきではないか、とも。携帯電話をポケットから取り出し、メールを打った。自分が誰の家にいるか、を書いた。宛名は迷ったが、小川令子にした。しかし、送信はしない。まだ、そこまで危機的な状況ではないだろう、というのが彼の職業的な勘だったのだ。  殺すならば、このようにメールを打てる猶予《ゆうよ》を与えるはずがない。それに、この場所で殺すことも危険である。なるほど、個人の安全というものは、実に複雑に絡み合ったシステムの中でバランスが取られているのだ。人間を一人抹殺することは、自分の存続に重大な障害になるような仕組み、結局は、自分の利害や安全が、他人のそれらと関連することで成り立つようなネットワークが作られた。だからこそ、かろうじて守られている。独立させないことで、独立を維持するのだ。波に波を重ねて打ち消すようにして、見かけの静寂が守られている。  その静寂は二十分ほど続いた。  鷹知は煙草が吸いたかったが我慢をした。ときどき立ち上がって、窓から外を覗いた。しかし、このまえのように庭園は照明されていなかった。塀の外の街も、暗闇に沈んでいるかのようだった。  ドアが小さくノックされ、一人の女性が入ってきた。濃いグリーンのワンピースに、薄い黄緑の細かい柄が入っていた。髪はストレートで長い。色白の大人しそうな顔立ち。  三澤有希江は、無言でお辞儀をしたあと、黒い瞳が微動しながら鷹知を捉えた。それが普通なのかもしれないが、潤《うる》んでいるような不安定な瞳だった。 「はじめまして、鷹知と申します」 「こんばんは」小さな声で彼女は挨拶をする。  鷹知は少し待った。しかし、なにも起こらない。 「お父様は、いらっしゃらないのですか?」 「はい。私が断りました」 「そうですか」  三澤有希江は父親が座っていた同じ椅子に腰掛けた。鷹知もソファに腰を下ろす。 「僕に、なにか、おっしゃりたいことがあるのですね?」鷹知は切り出した。 「私は、横川さんを愛しておりました」彼女は言った。姿勢良く座り、鷹知を真っ直ぐに見据えていた。声は小さかったものの、口調はしっかりとしている。  鷹知はじっと彼女を観察した。そういえば、父親に似ているところがある、と思った。一見まるで似ていない、実の親子ではないのか、と疑ったのだが、それは思い違いだとわかった。膝の上の手を見る。指は細く、指輪はなかった。 「事件の日、パーティを途中で抜け出されましたね。あのあと、横川さんに会われたのですか?」 「会いました」彼女は頷く。「でも、申し訳ありませんが、詳しくはお話しできません」 「ええ、それはけっこうです。ただでも、秘密にされていると、いずれご自身の立場が悪くなるかもしれません」 「はい、覚悟しております」 「警察には絶対に話しません。それでも、おききすることはできませんか?」 「お話しすることはありません」 「横川さんと結婚をされるご予定だったのですか?」 「はい」彼女は頷いた。 「いつ頃のおつもりでしたか?」 「まだ、そこまでは決めておりませんでした。来年の春あたりかと、話しておりましたが」 「そうですか。それは、大変残念なことでしたね。お辛かったでしょう」  三澤有希江は表情を変えず、小さく頷いただけだった。 「あの夜、どこへ行かれたのでしょうか?」 「家に帰りました」 「どうやって?」 「父が迎えにきました」 「お父様が? 三澤氏が、ご自身でですか?」 「そうです。たまたま、近くを通りかかったらしいのです」 「何時頃のことですか?」 「よく覚えておりません」 「お酒を飲まれていたのですか?」 「そうです。それで、私、気分が悪くて、それもあって、ええ、ほとんどなにも覚えておりません」 「鷲津伸輔さんをご存じですね?」 「ええ、もちろん」 「どこにいるのか、ご存じですか?」 「いいえ」 「あるいは、なにかお心当たりが、ありませんか?」 「会ったこともありません。父の方が詳しいのではないでしょうか。昔、おつき合いがあったと聞いています」 「わかりました。では、牧村亜佐美さんとは?」 「どういうご質問ですか?」 「つまり、どんなご関係ですか?」 「私ですか、父ですか?」 「どちらでも」 「私は、彼女の大ファンです。ショーは必ず見にいきます。もう十年以上、ずっと注目してきました。父も、最近、興味を持ったと思います。だからこそ、援助をする価値があると考えたのでしょう」 「それだけですか?」  彼女は息を吸い、目を細めた。気持ちを落ち着けているような仕草に見えた。 「たぶん」彼女は小さく頷いた。 「お父様は、何故、私を雇ったと思われますか?」 「安心したいのでしょう。父は、娘の言うことだけでは信じられないのです。なにごとにも慎重な人ですから」 「貴女が、事件に関わっているのではないかと心配されている、という意味ですね?」 「それもありますし、牧村さんに投資をしているので、もし危険があるならば、一刻も早く察知したいはずです」 「察知したら、お金を引き上げる、ということでしょうか?」 「わかりませんが、それなりの防衛というか、対策を打つのだと思います」 「貴女からご覧になって、この事件の真相はどこにあるでしょう? もしかして、犯人をご存じですか?」 「いいえ」三澤有希江は微笑んだ。ここへ来て笑顔になったのは、これが初めてだった。「存じません。それに、事件のことはなにもわかりません」 「では、どう思われましたか? 何が起こったのだとお考えになりましたか?」 「私が何を考えても、どうなるものでもありません。無駄なご質問だと思います」 「いえ、無駄ではありません。私は、できることなら、犯人を突き止めたいと思っています。どんな些細《ささい》なことでも、精確な情報が欲しいのです」 「これ以上のことは、私の口からはお話しできません」 「そうですか」 「もう、よろしいでしょうか?」 「どうも、夜分に、ありがとうございました」  彼女はすっと立ち上がった。 「あの……」鷹知は言う。 「何でしょうか?」 「また、お会いできないでしょうか? できれば、もう一度、お話を伺いたいのですが」 「同じです。その必要はないと思います」  三澤有希江は鷹知から視線を逸らせると、ドアへ歩き、そのまま出ていった。二度と目を合わせることはなかった。  入れ替わりで、すぐに三澤宗佑が部屋に入ってきた。 「機嫌が悪かったみたいだ」ドアを閉め、彼は小声で言った。「無駄だったのでは?」 「いいえ、とんでもない。御協力に感謝いたします。大変、参考になりました」鷹知はまた立ち上がって、お辞儀をした。  三澤は腰掛ける。そして、テーブルのシガレットケースから煙草を取り出した。 「あ、君も吸うかね?」 「いえ、けっこうです」鷹知は断った。  三澤は煙草に火をつけ、深呼吸をするように、それを吸った。 「さて、どうする?」彼は斜めの視線で鷹知を見てきく。 「今夜は、もうお暇します」 「うん」三澤は頷く。「なにか、できることがあったら、遠慮なく言ってくれ」 「あの、ガレージを見せていただけますか?」 「ガレージ? どこの?」 「このお屋敷のです」 「それは困る。こんな時間に無理だよ」三澤は微笑んだ。「見たければ、今度、案内するよ」 「失礼しました」鷹知も微笑んだ。 「どうしてだね?」 「三澤さんが、どんな車を運転されるのか、見たかったのです」 「ああ、私が、娘を迎えにいった話を聞いたんだね。そう……、電話があったから、迎えにいった」 「運転手はいなかったのですか?」鷹知は質問する。 「時間が時間だったのでね」 「それで、ご自身で?」 「ああ」三澤は頷く。そして、声が低くなった。「そのあたりは、あまりきかないでほしいね」 「牧村さんは、どんなふうでしたか?」鷹知は尋ねた。それは、一《いち》か八《ばち》かの質問、鎌をかけたものだった。 「いや、会っていない」三澤は表情を変えたものの、すぐに首を横にふった。 「そうですか」鷹知は頷いた。 「ほかには?」三澤が尋ねる。「なければ、もう終わりにしよう。休みたくなってきたよ」 「申し訳ありません。あと一つだけ」 「何だね?」 「私は、クビですか?」鷹知は尋ねた。 「いや」三澤の顔が笑った。般若《はんにゃ》のような怖ろしい顔に見えた。「どうして、クビにする必要がある? まだ、調査は終わっていない。君は有能だ。期待しているよ」 「わかりました」鷹知は頭を下げた。「ありがとうございます」  三澤と別れたあと、彼は一人で玄関を出て、ゲートまで歩いた。庭の奥にガレージが見えた。大きな倉庫のような建物だ。シャッタの幅が車三台分は優にあった。もちろん中は見えないし、照明も灯っていなかった。  正門の通用口から外に出て、インターフォンでそれを知らせると、ロックがかかる小さな音が鳴った。彼は暗い歩道を歩き始める。煙草を吸おうかと思ったが、もう少しだけ我慢することにした。      2  蒔《ま》いた種が芽を出し始めた。方々に手を尽くして放ったものが、結果として鷹知のところへ還ってきた。その一つは、牧村亜佐美の土地の売買に関わった不動産屋が突き止められたことだった。これは、役所に足を運び、銀行へも電話をかけて調べた。知り合いがいなければ、こんな短時間では辿《たど》り着《つ》けなかったかもしれない。店に二度めに訪れたとき、担当の人物に会うことができた。  牧村亜佐美が今の土地を購入したのは六年まえのことで、そのときの売買手続きに立ち会ったのが、その朝霧《あさぎり》という男だった。四十代だが、恰幅《かっぷく》が良く、見るからに貫禄があった。 「どこの関係です? 銀行でしょう?」朝霧が躰に似合わず高い声で尋ねた。「あんな事件があったら、そりゃ、びびるよね」 「ええ、まあ、いろいろと」 「で、何です? 何が知りたいの?」 「あの土地は、誰から買ったものですか?」鷹知は尋ねた。 「僕が知っているのは、大手の不動産屋が介入したというだけだね。僕、そこにいたんですよ。辞めちゃったけど。もう、知ってる?」 「ええ、聞きました」鷹知は頷いた。 「誰の土地だったかは、調べればわかるけれど、うん。ちょっと時間をもらえれば」 「三澤宗佑ですね?」鷹知はきいた。それは確認だった。 「あ、なんだ。調べたんだ」 「いくらでした?」 「ああ、金額が知りたいわけ?」 「金銭のやり取りが、実際にどうだったかと」 「そう、それが、びっくり、即金だった」 「即金? でも、えっと、何億ですか?」 「九億円だったかな」朝霧が答える。「ちょうど」 「それは、あの場所としては、妥当な額ですか?」 「そうね、今だったら、少し高すぎるかもしれないけれど、当時としては、高くはなかった」 「安かった?」 「いや、特別に安いってことはない。なにしろ、現金で一括払いだからね。端数《はすう》が数千万円あったけれど、そういうこともあって、ちょうどになった」 「どこで契約をしたんですか?」 「えっとね、あの近くにある銀行だったね。小さなビルの。そこの会議室で。うん、その銀行の口座どうしで振り込みをして、それで支払われた」 「出席したのは、牧村亜佐美自身でしたか?」 「もちろん」 「三澤宗佑も?」 「あ、いや、そちらは秘書の男だったかな。本人の代理人だったはず。まあ、受け取る方だからね」 「そうですか。それまでは、あの土地に三澤さんは住んでいたのですか?」 「いやいや、あそこだけまだ森林が残っていたんだ。住宅はなかった。買ったあと伐採《ばっさい》して、牧村さんが家を建てた。三澤さんは、あそこを温泉にしようと思っていたらしいけど……」 「温泉?」 「そう。もともと、温泉が出るからあそこを買ったらしい。でも、しばらく出たらしいけれど、そのうちすぐに出なくなった。それで、その計画は諦めた。で、ずっと遊ばせてあったわけだ。まあ、マンションでも建てるつもりだったのかもしれないけれど、ちょっと時期的にねぇ。様子を見ていたんじゃないかな」 「大学がすぐ近くですからね。学生相手の賃貸マンションだったら、良かったかも」 「そんなものじゃあ、儲からないよ」朝霧は笑った。 「それにしても、それだけ現金を、よく彼女、持っていましたね」鷹知は言った。 「そうだね……。遺産でもあったんじゃないの」朝霧は言う。 「建築屋はどこですか? ご存じですか?」 「ああ、うん、知っている。もう廃業しているけどね」 「え、どうしてです?」 「潰れたんだよ。珍しいことじゃない」 「はあ、そうですか。今は、どうしているんです?」 「さあね」  彼から工務店のことをきいて、鷹知はその日の午後には、そこへ向かった。郊外のバス通りに面した三階建ての建物だった。看板は構造だけが残っていて、文字はなかった。本当にもう廃業したようだ。  最初に年輩の女性が現れ、その彼女が呼びにいき、老人が出てきた。七十代ではないだろうか。もう夏だというのに、汚れたジャンパを着ていた。建物はシャッタが下り、部屋の中は暗い。空気もどことなく冷たく感じられた。 「お電話を差し上げました鷹知と申します」 「ああ、はいはい」 「牧村亜佐美さんの家を、高木《たかぎ》さんのところが施工されたそうですね?」 「うん。そうだが」 「設計されたのは、どなたですか?」 「わしの知り合いだよ。何を調べているんだね?」 「警察が来ませんでしたか?」 「警察? いや、どうして?」 「牧村さんの家で、事件があったからです」 「へえ、そうなのかね。どんな事件だね?」 「ご存じないのですか?」 「知らん。あまりテレビを見ないし、新聞ももう取っていない」 「どれくらいの総工費だったでしょうか?」 「さあ……、どうだったかな。どうして? 牧村さんにきいたら、教えてくれるだろう、そんなこと」 「そうですけれど……」鷹知は頷いた。「でも、牧村さんは、お忙しいのです。なかなか、僕などには会ってもらえませんからね。社長は、親しくされていたのですか?」 「まだ、あの頃は、牧村さんも若かったからな。うん、若い女の子が家を建てるっていうんで、びっくりしたよ。誰が金を出しているんだって、みんなが言っていた」 「誰が金を出していたんですか?」 「そんなことは、知らん。こっちは、もらえるものさえもらえれば、仕事をするには充分だから」 「それはそうですね」鷹知は愛想笑いをする。「あの、ゲートを入ってすぐの左手に、旗を揚げるポールが立っていますけれど、あれも、高木さんのところで作られたのですか?」 「ポール? ああ、あれか」 「覚えていらっしゃいますか?」 「あれは、うちじゃないよ」高木はそう言うと、咳《せき》をした。「どこかの鉄工所が持ってきた。うちは、地下の基礎の工事をしただけだ」 「設計図はありませんか?」 「どうかなあ、昔のものだからね。まあ、探せばあると思うよ、たぶん」 「その鉄工所というのは、どこですか?」 「あ、いや、うちの知り合いじゃなかった。お施主《せしゅ》さんの関係でね。ほら、芝居道具なんかを作っている製作所だったんじゃないかな」 「ああ、なるほど」 「家の中には、けっこう仕掛けがあるんだよ。隠し扉や、隠し部屋がある。その話でなら、一度テレビだったかが、うちへ訪ねてきたことがあるな。そのときも、設計図がないかってきかれたが」 「渡したんですか?」 「いや、秘密にした方が良いと思って」 「どうしてですか?」 「だって、種明かししたら、まずいだろう? 牧村さんが」 「そうか、そうですね。それ、どれくらいまえのことですか?」 「四、五年まえかな」 「あの、鷲津伸輔というマジシャンはご存じですか?」鷹知は別の質問をした。 「ああ、知ってるよ」 「会われたことがありますか?」 「うん、あそこを建てるときに、ちょくちょく顔を見た。まだ、牧村さんが若いから、後見人のような立場だったんじゃないのかな」 「三澤さんはご存じですか?」 「三澤? 三澤……、どこの三澤さんかな?」 「あの土地の元の持ち主です」 「いや、知らんね」      3  さらに一週間が、なにごともなく過ぎた。牧村亜佐美邸で起こった不可解な事件に関する話題は、もうテレビのワイドショーにも登場しなくなった。おそらく世間は、「まあ、不思議なこともあるものだ。それが世の中というもの。特に、あそこはマジシャンの家なんだから、それくらいのことがあってもおかしくない」といった納得のし方を採用したのではないだろうか。  真鍋は例の講義ではレポートを提出したと話していた。永田絵里子はどうだったのか、という質問を、小川は我慢してきかなかった。その後、真鍋の口から永田の名前が出たことは一度もない。そもそも初めから、友達のことを話すような機会は、真鍋にはほとんどなかった。大学のことさえ話さない。  鷹知とは二日まえに会った。事件について、現在得られている情報を彼から聞くことができた。可能な限りの周辺の事情を探っているようだが、しかし、核心に迫っているとは、どうしても思えない。むしろ遠ざかっているようにさえ、小川には感じられるのだった。  事務所での仕事は、先週の美術品のチェックのあと、これといってなかった。今朝も、真鍋とおしゃべりをしているうちに一時間ほどが過ぎてしまった。最近、彼は以前よりは大学へ行くようになったみたいだ。いよいよ単位を取得し、卒業をしようという気になったのかもしれない。 「真面目に行っていますよ。もう人が変わったみたいに」というのが、真鍋自身の言葉である。 「そのわりに、ここへ来ているじゃない」小川は笑った。「美大生って、こんなに暇なもの?」 「そうです」真鍋は簡単に頷いた。「そういうふうにカリキュラムができているみたいなんですよ。僕は特に留年生だから、さらに暇ですし。まあ、学生のうちにあちこちバイトをして、仕事を見つけておけ、という指導方法なんだと思います」 「見つけておけっていうのは、たとえば、どんな仕事?」 「ですから、自分の技術が活かせるような職場ですね。映像関係とか、デザイン関係とか、美術関係とか、まあ、いろいろ」 「ここは? 探偵社だけれど」 「美術関係ですよ」 「おお、そういえば、そうだね」小川は口を窄《すぼ》める。「すっかり忘れてた。でもさ、真鍋君って、映像なんじゃないの?」 「ええ」彼は頷いた。  永田さんもそう? という台詞が喉まで上がってきたが、小川は思い留まった。  真鍋の方もそこで言葉が途切れ、フォローはなかった。映像関係には進みたくない、というようなことが言いたかったのではないか。  通路を歩く音が聞こえ、ノックもなくドアが開いた。入ってきたのは椙田|泰男《やすお》である。この事務所のボスだ。 「おはようございます」小川は立ち上がって挨拶をした。 「おはよう」椙田は自分の椅子に座った。「真鍋、どうだい、調子は?」 「何の調子ですか?」真鍋がきき返す。  その会話はそこで終わった。小川は、お茶を出すために、シンクの方へ移動する。 「あ、いいよ。そんなこと」椙田がそれに気づいて言った。「そうだ、あの事件、どうなった? 鷹知さん、まだやっているのかな?」 「はい。調査中だと思います。進展しているようには見えませんが」 「三澤家の依頼だとなると、まあ、なんというのか、抜き差しならない仕事といって良いな」椙田は煙草を口にくわえ、ライタで火をつけた。「ずいぶんまえになるが、一度だけ会ったことがある」 「三澤宗佑氏にですか?」 「そぅ、三澤宗佑。先代が一番やり手だった。あの人は、育ちが良すぎる感じだね。そろそろ引退の歳だが、跡がどうなるのか」 「跡取りがいないようですね」小川は言った。彼女はそれを知っているのだ。 「さあ、よく知らないけど、そうなの? まあ、今どき、血縁の跡取りがいても、いなくても、そんなに条件は変わらないだろうね。あれだけ大きくなると」  椙田に幾つか質問され、小川は、事件のことで自分の知っていることをほとんど話した。唯一黙っていたのは、W大を訪ね、西之園に会ったことだ。したがって、鷲津伸輔と西之園が知り合いである、ということも黙っていた。  また、鷹知が持ってきたときコピィをしておいた図面を真鍋がテーブルに並べた。大きな図面を、分割してコピィしたため、並べないと全体像が見えない。牧村家の敷地の配置図と、問題のポールの図面だった。 「こちらは、工務店が施工した基礎の部分だそうです」小川は説明する。「上の構造は、牧村さんの知り合いの鉄工所が作ったそうです。そこも鷹知さんは突き止めて、話をききにいったようですけど、門前払いだったとかで、なにも教えてくれなかったみたいです」 「ああ、たぶん、舞台の大道具なんかを作るんだろうね、そこで」椙田が言った。「マジックっていうのは、かなり、そういった特殊な工作が必要になるはずだ。請け負っている方も、秘密厳守だってわかっているんだよ」 「あのポールにも、仕掛けがあるんですよ」真鍋が発言する。「図面だけじゃ、ちょっとわかりませんけれど」 「真鍋君、また仕掛けの話をしているんです」小川は笑いながら話した。「でも、たとえ仕掛けがあったとしても、何のために、あんなところに死体を持ち上げたのかは、全然わからないんですけど」 「これは、かなりしっかりした基礎だな」図面を見ながら椙田は言った。「旗を掲げるだけにしては、本格的すぎるような気がする」 「そうですか?」小川は顔を上げて、椙田の表情を窺った。 「いや、専門じゃないから、よくはわからない。誰か、専門家に見てもらったらどうかな」  小川は、すぐに西之園を連想した。彼女は建築学が専門だ。 「警察が、もう調べているのではないでしょうか?」小川は言った。 「どうだろうね。案外、抜けているからな、警察も」それが椙田の意見だった。  そのあと、事件とはまったく別の話題になった。美術品関係のイベントが来月開催され、そこに椙田の得意先が個人として出展するので、その手伝いを依頼された、という話だった。この打合せをするために椙田はやってきたのだ、と小川は理解した。  小川の携帯電話が鳴る。 「はい、小川です」 「もしもし、西之園です。こんにちは」 「あ、ああ、どうも……」小川は、思わず椙田の方を見てしまった。しかし、彼はテーブルの上の図面に視線を落とし、煙草を吸っている。 「あの、突然なんですけれど、近くまで来ているので、ちょっと、そちらへお伺いしようかと思ったんですけれど、よろしいかしら?」 「あ、はい、えっと、今からですか?」 「ええ、今、駅にいます。道順を教えていただければ、歩いていきます」 「よく場所がわかりましたね」小川は不思議に思った。名刺には、住所は書かれていない。小川の携帯電話の番号、メールアドレス、そして、事務所の番号だけだ。 「鷹知さんに、聞いたんです」西之園は答える。 「あ、そうですか」  小川は、だいたいの道を教えた。もう一度、椙田を見ると、今度はじっとこちらを睨んでいる。電話は誰からだ、とききたそうな顔だ。 「あの、こちらからも、お迎えにいきますので」 「いえ、大丈夫ですよ、近づいたら、また電話をしましょうか?」 「はい、そうですね、そうしていただければ……」 「ごめんなさい、手ぶらなの。あ、良かった。あそこにケーキ屋さんがあるわ。そちら、何人ですか?」 「あ、えっと……。二人です」小川は答える。 「真鍋さん?」 「はい」 「わかりました。では、のちほど……」  電話が切れた。 「客か?」椙田がすぐにきいた。 「はい」小川は、そこで一呼吸置いた。鼓動が速くなっている。自分は緊張しているのだ、と自覚。「あの、W大の西之園先生がいらっしゃいます」  それを聞いて、椙田は目を見開いた。「今から?」 「はい」 「どうして、こんなことになったんだ?」椙田は低い声で言った。「いや、その話はあとでゆっくり聞こう。反省会が必要だ。僕は出かける。僕がここにいたことを話すな。椙田という名前も出すな」彼は、部屋の周囲を見回した。デスクへ戻り、書類を積み直す。「ボスの名前は、そうだな、松田《まつだ》とでも言っておくこと。真鍋!」 「はい」真鍋が立ち上がった。 「余計なことを言うなよ」 「はい、ええ……、わかりました」 「まったく……」椙田は舌打ちして、ドアの方へ歩く。  しかし、また戻ってきた。 「あ、その灰皿を片づけておいて」彼はテーブルの上のそれを指さして言った。「煙草の銘柄を見られるとまずい」 「あの、どうして……」小川は我慢ができなくなって、口にしかける。 「それは……」椙田が、小川の顔の前に指を突きつける。「反省会で話し合おう」 「はい、反省会で」小川は言葉を繰り返して頷いた。  椙田はドアから出ていった。  五秒ほど、小川も真鍋も立ち尽くし、黙っていた。 「ちょっと、変でしょう?」小川は呟く。そして溜息がもれた。 「まあ、そうですね、客観的にいって」真鍋が言った。 「よほど嫌っているのね。何があったんだろう」 「うーん、あまり、詮索しない方が良いんじゃないですか」 「それは、そうだけれど」小川はまた長い溜息をついた。      4  小川は一人で迎えに出た。西之園が大通りから脇道へ入ってくるところが見えた。遠くからでも、すぐに彼女だとわかった。ショルダバッグとケーキの箱を持っている。薄い紫色のスーツで、スカートは上品な丈。ブーツは長めで真っ白だった。サングラスをかけていたが、小川が近づくとそれを外して、胸のポケットに引っかけた。時刻はまだ十一時まえである。 「こんにちは、突然、どうもすみません」西之園が明るい笑顔で言った。 「いえいえ、あの、ありがとうございます。とても嬉しいです」小川は頭を下げた。 「こちらへは、お仕事でいらっしゃったのですか?」 「ええ、この近くに学会の本部があって、そこで午後から委員会があります。図書館に寄ろうと思って、早めに出てきたんですけれど、休館日でした。平日に休むなんて、信じられません。それで、ふと、思い出して……、鷹知さんに電話をかけて伺ったのです」 「鷹知さん、まだ、あの事件のことで調べているようです」 「ええ、そうおっしゃっていました」  事務所に戻ると、真鍋が、お茶の準備を整えて待っていた。西之園にはソファに座ってもらい、すぐに紅茶を淹れる。西之園が買ってきたケーキを食べることになった。 「いつも、だいたい、こちらにいらっしゃるのですか?」西之園がきいた。 「そうですね。でも、出かけていることも多いです」小川は答える。 「居心地の良さそうなところですね」西之園は部屋を眺めている。「静かだし……、あ、音楽が、お好きなのね」 「え、どうしてわかりますか?」 「うーん、なんとなく」西之園は微笑んで、そちらを指さした。「アンプの置き方に、主張があるみたいだから」 「はい、ちょっと、煩《うるさ》い方なんです」小川は頷いた。 「もう一人の方が、所長さんですか?」西之園は、椙田のデスクを見てきいた。 「ええ、そうです。でも、ほとんどここへは来ません。電話で指示を受けることが多いですね」 「ふうん、それじゃあ、気が楽かもしれない」西之園が、肩を竦めて言った。こういった仕草が、普通ではありえない感じだ、と小川は感じている。しかし、不自然ではない。映画のワンシーンを見ているようなのである。  ケーキを食べながら、しばらく世間話をした。西之園には、鷲津伸輔の話をききたかったが、小川は慌てず、機会を待った。 「そうだ、西之園先生に、あれを見てもらいましょう」小川は真鍋を見た。「あの図面」 「はいはい」真鍋が機敏に立ち上がって、それをデスクへ取りにいく。  ケーキの皿と紅茶のカップを退避させ、図面のコピィを並べて、西之園に見せた。 「ああ、これがあそこの……」西之園は頷く。「へえ、基礎が深いし、大きいし、あれ?」彼女は首を捻った。「変ですね」 「そうですか?」小川は真鍋と眼差しを交わす。 「ええ、どうして、こんなに深いのか……」西之園は顔を上げた。「これのまえに、なにかあったんじゃないかしら」 「まえに?」小川は思い出した。「あ、えっと、温泉を作る予定だったとは聞きましたけど」 「あ、では、ボーリングしていたんだわ」西之園は頷いた。「なるほど。そのときの土台を利用したのね」 「ボーリングっていうのは、穴を掘ることですか?」小川は尋ねた。 「そうです。パイプをどんどん地下へ差し入れていくの。回転させながら、先のドリルで地盤を削って、削った分は、パイプの中に入りますから、それを引き上げる」 「そのパイプが、ポールになったわけですか?」真鍋が尋ねた。 「いえ、そういう意味ではありません」 「深すぎるというのは……」小川も言いかけた。 「もしかして、昇降するのかもしれない」西之園は顔を上げた。「上ものの図面はありませんか?」 「ウワモノ、ですか? いえ、ありません。上の構造は、鉄工所が作ったそうです」 「鉄工所? ああ、では、やはり、機械的なものがあるのですね。その一部が、地下のこの部分に収まっているんだわ」西之園は図面上を指さした。 「何が、収まっているのですか?」 「昇降装置ではないかと」 「それは、どんなものですか?」 「つまり、モータの力で、ポールを上げたり下ろしたりするんです。ポール自体が、地面の中に入って、高さが低くなる。これで、どうやって死体をあんな高いところまで上げたのかがわかりましたね」 「え? そうなんですか……」小川は驚いた。「そこまで、この図面からわかるのですか?」 「いえ、想像です。証拠としては不充分です。その鉄工所に、装置の図面があるはずですし、実物を調べればわかります。電源が引かれているでしょうし、近くのどこかに操作をするスイッチもあるはずです。いえ、もしかしたら、リモコンかもしれません。そうなると、装置側に、赤外線を感知するセンサか、電波を受信するアンテナがあると思います。マジシャンですから、それくらいの仕掛けはするのでは?」 「それ、あの、警察は知っていることでしょうか?」 「さあ、どうかしら。今度、きいてみましょうか?」 「あれから、西之園先生は、事件のことで警察に行かれましたか?」 「いいえ、全然」彼女は首をふった。「事件の翌日、お会いしましたね、あの日だけです。公安から、一度電話があったくらいです」 「公安?」 「いえ、全然関係がありませんね、というお話です」 「何と関係がないのですか?」 「ですから、私が興味を持っている事件と、今回の殺人とは、無関係だということです」 「先生が興味をお持ちの事件は、公安も興味を持っているわけですか?」 「ええ」西之園は頷いた。「それは、ここではちょっとお話しできません。関心もないと思います」 「関心はありますけれど、ええ、でも……、聞いちゃいけないことのようですね」 「ええ、知らない方がよろしいと思います。簡単に解決できるような問題ではありません」 「わかりました」小川は頷いた。「しかし、今回の事件も、考えてみたら、そのポールが機械で動いたとして、それだけで一気に解決に向かうわけではありませんね。その機構を知っている者が使った、というくらいでしょうか。いえ、それも、特定はできませんね。知らなくても、別の方法で上げた可能性もまだあるわけですし」 「あのぉ」真鍋が片手を上げた。彼はもうケーキを食べてしまっていた。「あのポールが機械的に持ち上がるということは、低くしておいて、死体のベルトにフックを引っかければ、あとはボタンを押して、それでお終い、ということですよね?」 「ええ、そうです」西之園は頷いた。 「それだけの力があるわけですか?」真鍋が質問する。 「当然そうですね。人間の重さなんて、あのポール自体の重さに比べたら、微々《びび》たるものです。ポールは何百キロもあるはずですから」 「そうですよね」真鍋は嬉しそうに頷いた。「となると、このまえ、小川さんが僕に言った反論は、もろくも崩れ去ったことになりますね」 「え、何のこと? 私、反論なんかした?」小川は横にいる彼を見据えた。 「えっと、僕が、ポールに死体を上げた理由は、死体を隠すためだって言ったときですよ。小川さん、ポールに上げる力があったら、どこにでも隠せただろうって反論しましたよね」 「ああ、言ったかな」 「今の状況は、僕が言ったとおりだと思いませんか? つまり、一人では死体を移動できなかった。でも、そのモータで動くポールを使えば、死体を手軽に持ち上げて、人目につかないところへ移動できたわけです」 「そうね」西之園が言った。「私も、そのとおりだと思う」 「ほらほらほら」真鍋は、嬉しそうな顔で、小川を肘で押す仕草を見せる。 「でも、その場合、あの屋敷の中までは、どうやって死体を運んだのか」西之園が指摘する。「車で運んだにしても、ゲートの外まででしょう? 中に入れるには……」 「あ、いえ」小川が割り込んだ。「あの、牧村さんのスタッフの車が一台、消えているそうなんです。それが使われたらしくて、その、あそこのゲートを開けるリモコンが、車にのっていたそうなんです」 「ああ、では、その車で中に入って、死体を下ろすときも、ロープで、ポールのフックと、車の中の死体をつないで、ポールが上がる力を利用したのでしょう」西之園がすらすらと話した。「ちょうど、クレーンのように使ったのだと思います」 「そうかそうか、クレーンですよね」真鍋が躰を弾《はず》ませている。「これで、事件の謎が解けましたね」 「えっとぉ、誰が運んだの?」小川は彼にきいた。 「いえ、そこまでは、ちょっと」 「それじゃあ、全然解決してないわ」 「事件が解決したんじゃなくて、事件の謎が解決した、と言ったんですよ」真鍋が言う。 「すみません。このとおり、理屈を捏ねるんですよ、この人は」小川は笑って、西之園を見た。  ドアがノックされた。 「はい」小川は立ち上がる。 「こんにちは」顔を出したのは鷹知祐一朗だった。      5  鷹知は、この事件の調査をするに際して、小川から西之園を紹介されたが、電話とメールでやり取りをしただけだったので、西之園に直接会うのはこれが初めてだった。 「いえ、さきほど、電話でこちらをきかれたので、もしかしていらっしゃっているのでは、と思いました。電話が、外からのようでしたし」鷹知は説明した。 「今ね、図面を西之園先生に見ていただいたの」小川は話した。「びっくりするようなことがわかったんだから」  彼女は、鷹知に、ポールの昇降装置が仕込まれていたかもしれないこと、さらに、真鍋が主張している仮説についても、簡単に説明した。 「へえ、それは、気づかなかった」鷹知は顎に手をやった。「となると、もう一度、あの鉄工所へ行ってこないと」 「そうそう」小川は頷く。 「そんなことよりも、牧村亜佐美さんに、直接きけば良いのでは?」西之園が澄ました顔で言った。「隠すようなことでもないはずです」 「でも、あんなことがあっても、警察にそれを言わなかったのは、隠しているんじゃありませんか?」小川は言う。 「彼女には隠す理由があります」西之園は言う。「マジックのネタなので職業上明かせなかった、と弁解するでしょう、きっと」 「牧村さん自身が、それを操作した、という可能性はどうですか?」真鍋が言った。「帰ってきたら、死体があそこにあった。だから、死体をポールで持ち上げたんです」 「どうして、そんなことをするわけ?」小川が尋ねる。 「うーん、つまり、もうすぐ、見られちゃ困る人が来るから、急いで隠したんですよ」 「自分が殺したのでもないのに? どうして隠すの?」小川はさらに尋ねる。 「それは……」真鍋は目を天井へ向けた。「つまり、殺した人を庇《かば》いたかったからじゃないですか?」  真鍋の説明に、少なくとも小川は納得してしまった。彼女は、西之園、そして鷹知の顔を見た。二人とも黙って真鍋に見入っている。 「たとえば、ですよ」真鍋は両手を額に当てて、自分の頭を支えるようにした。「ううんと、三澤さんというファンの人、その人が、横川さんと知り合いで、ナイフで彼を刺してしまった。現場は地下駐車場です。横川さんは、みんなを驚かすために、なにか趣向を用意していたけれど、殺されてしまって、スタッフのバンで駐車場から運び出されます」 「どうやって、車に乗せたの? 三澤さんは一人でしょう?」小川は反論する。「男性の死体を車に乗せられる?」 「車の中で殺したんですよ」真鍋はすぐに答えた。  小川は小さく口を開けて、息を吐きながら頷くしかなかった。 「で、三澤さんは、車を運転して、牧村さんの家までやってきた。リモコンでゲートを開けて、敷地の中に入って、そこで、牧村さんが帰ってくるのを待っていた」 「どうして?」 「さあ、どうしてでしょう」真鍋は両手を広げて上に向ける。「でも、もしかしたら、そういう段取りだったのかもって」 「段取り?」小川はきいた。「牧村さんが共犯だったという意味?」 「いや、それはおかしいな」鷹知が発言した。「共犯だったら、牧村さんには無関係の場所へ運んだはずだ。もっと遠くへ持って行った方が安全だ。牧村さんの家に行く理由がない」 「でも、早く発見されれば、アリバイ作りにはなりますよ」真鍋は言う。「牧村さんを容疑者にしないアリバイです」 「もともと、彼女が殺したわけではないんだから、アリバイなんておかしいよ」鷹知は言った。 「続きを話して」それは西之園の声だった。 「あ、はい」真鍋は背筋を伸ばし、姿勢を正した。「えっと、ちょっと仮説を変更します。三澤さんが、死体を乗せた車をゲートの中に入れたところまででした。牧村さんが帰ってくるのを待っていた、という部分はやめます。聞かなかったことにして下さい」 「うん、それは、良い判断だね」西之園は微笑んだ。  真鍋はますます緊張した顔になる。 「えっと、そこで三澤さんは、どうするつもりだったのか、それはわかりません。死体を降ろして、車だけはホテルへ戻すつもりだったのかも。でも、どうしても自分一人では、それができなかった。死体が重くて持ち上がらないし、とても車から降ろせなかったんです。そこで、ポールを使うことを思いついた」 「彼女は知っていたのね? ポールの仕組みを」小川は口を挟んだ。 「そうです。ファンといっても、かなり親しい間柄だったことになりますね。マジックの手伝いをしていたのかもしれません」真鍋は話す。「それで、ロープを使って、ポールのフックと、死体のどこか、うーん、たとえば、ベルトとかをつないで、ポールをモータで上げます。これで、死体を動かして、車から降ろしたんです。車はポールのすぐ近くに駐めたのだと思います。トラックじゃないから、ロープが最初は上手く張れないと思いますけど、横に引きずったりして、なんとか外に出したわけです。ところが、そこに、誰かがやってきました。夜中だったので、ゲートの外でもの音がしただけでわかります。あるいは、話し声がしたのかもしれません。だから、そのままポールを上げて、死体も持ち上げてしまいました。その場から隠したわけです」 「誰が来たと思う?」鷹知が尋ねた。 「さあ、牧村さんは、もっとあとですね、たぶん……」真鍋は話した。「たとえば、三澤さんの家族じゃないでしょうか。帰りが遅いから心配して、牧村邸へ様子を見にきたんですよ。そこで、パーティをしていると思ったのかもしれません」 「ホテルへ行かないかなぁ?」小川は言う。 「そのまえに、電話をかけたと思います」真鍋は言う。「それで、きっと、今、牧村さんのところにいるって、三澤さんが答えたんですよ。そう言えば、心配されないだろうと思って」 「うーん」小川は腕組みをして唸った。 「それで?」西之園が真鍋を促す。 「えっと、えっとぉ、つまり、家族が迎えにきちゃったわけですよ」真鍋は目を細め、苦しそうな顔をした。「それで、えっと、とにかく、三澤さんは、そのまま帰らざるをえなくなった」 「車はどうしたの? 死体を運んだ車は」小川が尋ねる。 「それは、もちろん、乗って帰ったんだと思います」 「家族が迎えにきたのに? 変じゃない?」 「だけど、そこに置いてくるわけにはいかないし」真鍋は話す。「そこにあったら、すぐに警察に発見されてしまいますよね? いくら、牧村さんが共犯で、打ち合わせてあったとしても、車を隠すのは無理ですから」 「じゃあ、消えた車は、三澤さんの家にあるわけね?」小川はそう言いながら、鷹知を見た。「鷹知さん、どう思います?」 「うーん」鷹知は難しい顔をしていたが、片手を広げた。「ちょっと待って。今、考えている」 「え?」小川は鷹知の反応に驚いた。「何を考えているの?」 「その車が発見されたら、被害者の血痕も残っているでしょうから、とても重要な証拠品になります」西之園が言った。「そんな危険なものを、自宅へ持っていったというのは、どうも行動として不自然な気もしますけれど」 「ええ、そうですそうです。僕もそう思います」真鍋は頷く。「でも、未だに見つからないというのは、やっぱり、警察が立ち入っていない場所に故意に隠されているとしか思えません。どこかで乗り捨てたわけではないと思うんです」 「それは、そうね」西之園は頷いた。 「まあ、いちおう? うん、ありえないほどではないけれど」小川は言った。「でも、根拠はまったくないし、ところどころ、飛躍というか、ちょっと無理な推論があるような気もするし。そのとおりのことが実際にあったなんて、残念ながら思えない、私には」 「私は、意外にそのとおりかもしれない、という印象を持ちました」西之園が抑揚《よくよう》のない口調で言った。それを聞いて、真鍋の表情がぱっと明るくなるのを小川は見逃さなかった。 「僕も、意外にいい線いっているような気がするな」下を向いていた鷹知が顔を上げた。「というのも、実は、三澤さんの家を知っているからなんだ。とにかく、大変な資産家でね。車くらい簡単に隠せる。警察も立ち入っていないはずだ。なにしろ、警察は、三澤さんが前日のパーティにいたことを把握していない」 「たしかに、家族が迎えに来そうな家ですよね。お嬢様だし」小川は言った。 「小川さん、よく知っているね」鷹知が尋ねる。 「ええ、実は」小川は頷いた。「三澤有希江さんだけですけど。彼女、大学のときの同級生なの」 「え!」鷹知がびっくりした顔をする。「じゃあ、同じ歳なんだ」 「あら、いけませんでした?」小川は鷹知を睨みつける。「三澤さん、若く見えますよね」 「えっと、三十歳くらいかと思った。未婚だよね」 「会ったことがあるの?」 「うーん、いや、実は……」 「調べているのね、ちゃんとそこまで。今まで、どうして、教えてもらえなかったのかしら?」小川は鷹知に、少々不満げな顔をつくって見せた。 「プライベートな情報だから、あまり広めない方が良いと思って」鷹知は答えた。「でも、もし、今の真鍋君の説が正しいとしたら、ますます慎重にことを運ばなければいけない」 「そうかしら」西之園が首を傾げた。「三澤さんに、会いにいって、話をきいたら、それで解決するのでは?」 「そう……」小川もつい頷いた。しかし、鷹知の顔を見て、気が変わった。「ともいえないか……、難しいよね、実際には」 「私が、一つだけ疑問に思ったのは……」西之園が真鍋を見据えて言った。「ポールの上の死体の位置です。君の説明だと、ロープでフックと結ばれていたわけでしょう? でも、実際には、死体はポールの頂上にあって、ベルトが直接フックにかかっていた。車から死体を降ろすために、ポールをクレーン代わりに使ったとしたら、どうしてもロープが必要になって、そのロープに死体がぶら下がる格好になるはず」 「そ、そうです」真鍋は頷いた。 「ということは、車から降ろすときにはロープを使ったけれど、一度、ポールを下げて、そのロープを外し、直接フックにベルトを引っかけ直した。そして、もう一度ポールを上げたことになる。そうでしょう?」 「ええ、そうなります」真鍋はまた頷いた。蛇《へび》に睨まれた蛙《かえる》みたいに、西之園から視線が逸らせられないようだった。 「わざわざ、掛け直した理由は?」それが西之園の質問だった。 「ロープが長すぎて、高さが足りなかったからです。隠すためには、視界よりも高いところまで死体を持ち上げる必要があったんです」 「うん」西之園は頷いた。「面白いわ」彼女は自分の腕時計を見て、それから、急に表情を変え、小川を見た。「私、もう失礼しないと」 「え、あ、そうなんですか」 「このあと、委員会があるんです。お昼を食べながら議論するんですよ。馬鹿みたいでしょう? でも、仕事ですから」  西之園は立ち上がり、バッグを手にした。鷹知にお辞儀をする。彼もすぐに立ち上がって、頭を下げた。 「あの……」小川はソファを回って、彼女の後を追った。 「では、またいずれ」西之園は一礼して、ドアを開けて出ていった。 「西之園先生」通路に出たところで小川は追いついた。「あの、すいません」 「はい」彼女は立ち止まって、振り返る。 「どうすれば良いでしょうか? 事件のこと」 「いえ、それは、私には判断できません」 「鷲津伸輔氏からは、その後も連絡はありませんか?」 「ありません」 「なにか、アドバイスはありませんか?」変な質問だな、と自分でも思ったが、とにかくぶつけてみた。 「貴女に?」大きな瞳で、西之園は真っ直ぐに小川を捉える。 「はい」小川は頷いた。 「牧村亜佐美か、ファンの三澤さんに、直接会いにいくべきじゃないかしら」西之園は言った。「それで、解決するかもしれません。案外あっさり」 「え、解決しますか? 本当に」  西之園はにっこりと微笑んだ。 「あ、どうも、今日はありがとうございました」 「失礼いたします」西之園は優雅にお辞儀をした。      6  西之園が去ったあと、鷹知も、次の約束があると言い、慌てて事務所から出ていった。真鍋はカップと皿をシンクで洗った。小川は、ドアを何度か開けたり、窓の外を覗いたりして椙田を捜したが、近くにはいないようだった。しばらく待ったものの、現れなかったので、電話をかけて知らせることにした。 「もしもし、あ、あの、西之園さんは、さきほど帰られました」小川は報告した。 「怪しまれるようなことはなかったか?」椙田が低い声できいた。 「はい、大丈夫だと思います。ずっと、牧村邸の事件の話をしておられました。あ、途中で、鷹知さんもいらっしゃいました。もう、帰られましたけれど」 「そうか、それはまずいな。彼にも釘を刺しておかないといけないってことか」椙田は言った。 「椙田という名前を出さないように、ということですか?」 「そう」 「私から、言っておきましょうか?」 「いや、こちらでなんとかするよ」 「わかりました。戻られますか?」 「いや、もう遠くへ来ている。とにかく、しばらくは気をつけよう、うん……」 「牧村邸のポールなんですが、あれは、上下に動くものではないか、というお話でした。地下にポールが沈み込むような機構になっている可能性が高いと」 「ああ、なるほどな。まあ、それはまた今度聞くよ。あ、そうそう、公安の話をしていなかったか?」 「え、西之園さんですか? ええ、おっしゃっていました。よくご存じですね」 「どんな話だった?」 「いえ、今回の事件は、そちらの事件とは関係がないということでした。そちらの事件がどんなものなのかは、聞かない方が良いだろうって。ですから、深くはおききしませんでしたが」 「そうか……」 「どんな事件なのですか?」 「うん、まあ、ちょっと、その、いろいろあってね」 「椙田さんも、関わっていらっしゃるのですか?」 「うん、まあ、なんというのか」 「いえ、聞かない方が良ければ、これ以上は……」 「そうだな。あまり深入りしない方が良い。うちの仕事とはまったく関係がないし」 「そうですか」 「彼女、どうだった? 事件のことに首を突っ込んできただろう?」 「そうですね、でも、冷めている感じです。真鍋君が、推理を披露したんですよ。それで少しだけ盛り上がりましたけど」 「またか……、どうせろくでもない推理だろう?」 「いえ、なんか、西之園さんも、あ、それに鷹知さんまで、まんざら否定的でもなくて、二人とも慌てて、出ていかれました。西之園先生は、学会で昼食をしながら委員会だ、とおっしゃっていましたけど」 「まだ助手だし、新米だから、幹事をやらされているんだよ。だから、遅刻するわけにいかないんだ」 「よくご存じですね」 「あ、いや……」椙田はそこで咳払いをした。「たまたま、ちょっと小耳に挟んだだけだ。とにかく、今後も大いに気をつけるように」 「はい、わかりました」 「僕のためだと思って」 「は?」  電話が切れた。 「僕のためだと思ってぇ?」言葉を繰り返したが、首を傾げることしかできなかった。 「鷹知さん、慌ててましたね」洗ったカップを棚に片づけながら、真鍋が言った。 「そうだったかな」 「やっぱり、あれですよ、三澤さんが依頼主ってことじゃないですか? お金持ちなんでしょう?」 「それ、うん、私もそう思う」小川は頷いた。「でも、もしそうだとしたら、どうして調査を依頼したのかしら? 表に出したくないはずでしょう? 下手に動いたら、いろいろ知れてしまう。たとえば、もし本当に……」 「三澤さんが犯人だとしても」真鍋が言った。「三澤さんの家族は、娘が殺人犯だとは思っていないわけですよ。だから、鷹知さんに依頼をしたのは、つまり、家族なんです。ほら、べつにおかしくないでしょう?」 「君に言われると、なんでも、そうかなって思っちゃうんだよね、この頃」小川は溜息をついた。「なんだか、真鍋毒で中毒になっているみたいな感じ」 「それは、酷いですよ」真鍋が笑いながら言った。  しかし、小川の正直なところだった。自分で考えるまえに、真鍋にあれこれ言われてしまい、結果的に、自分で考えることができない、そんな状況に陥っている気がするのだ。これは、真鍋症候群と名づけても良いのではないだろうか。 「弁当を買いにコンビニへ行ってきますけど、小川さん、なにか欲しいものありますか?」 「うーん、いえ、大丈夫、今日は」  真鍋は出かけていった。小川は一人になり、音楽をかけることにした。  昼食は特に用意はしてこなかった。少しダイエットしようと考えていたからだ。曲はゆったりとしたジャズだったけれど、彼女は、部屋の真ん中で姿勢を正して立ち、呼吸を整えた。そして、腰をやや落とし、片腕を真っ直ぐに前にゆっくりと伸ばした。次にその腕を引き込み、反対側の腕を伸ばす。同時に、その動作に合わせて、息を吐いた。  深呼吸をして、目を瞑って首を回した。躰がふらつき、目眩《めまい》がしそうだった。 「そうだ、ちゃんと自分で考えなくちゃ」  そう呟いていた。 [#改ページ] 第5章 やがて虚栄は崩れ [#ここから5字下げ]  ペドロ・ビカリオは屠殺人《とさつにん》の腕っ節でナイフを引き抜くと、ほぼ同じ場所をもう一度突き刺した。「妙なことに、ナイフを抜いても血がついてませんでした」ペドロ・ビカリオは検察官にそう証言している。「少くとも三度は奴を刺しましたが、血は一滴も出ませんでした」 [#ここで字下げ終わり]      1  鷹知祐一朗は、三度めの電話で三澤宗佑を掴まえることができた。今から大事な会議があって、そのあとはホテルの会場で懇親会になる、と三澤は言った。 「パーティが終わったら、もっと大事な席があってね、どうしても出なければならない。いつ終わるかもわからないよ。大事な話かね? 急ぐようだったら、パーティの合間に、十分か二十分ならば、抜け出すことができると思うが」 「では、その時間に、そちらへ参ります。いつでも電話をかけて下さい」  そのホテルへ行くまえに、警察に寄って、刑事と会った。事件についてはほとんど進展はない。報告書に添付される検査結果が清書されただけだった。問題の車も依然として見つかっていない。  そのあと、三澤有希江に会うことを思いついた。三澤家に電話をかけたが、出かけているという。自分は三澤宗佑にパーティで会う約束をしていて、そのまえに彼女に確認しておきたいことがある、と説明をして、連絡を取ってもらうことにした。父親の名前を出せば効果があるだろう、と踏んだのだ。十分後に、電話がかかってきた。 「三澤です。何のご用でしょうか?」冷たい口調である。 「お話を伺いたいのです。ほんの少しだけでけっこうですので、お時間をいただけないでしょうか?」 「いえ、申し訳ありませんが」 「私は、お父様に依頼されて調査をしております。三澤様の不利益になるようなことはいたしません。警察からの情報も内々に得ております。このままでは、いずれ不愉快な思いをされることになるかもしれません。どうか、ご理解をいただきたいのですが」 「抽象的なことをおっしゃいますね。今から、ピアノのコンサートなんです。それが終わってから、そうですね、十分程度ならば……」 「どちらですか?」  場所と時間を聞いたが、残念ながら、三澤宗佑の約束とバッティングすることがわかった。しかたなく、明日の夕方の約束を提案したが、これはあっさり断られた。また改めて電話をしよう、と鷹知は一旦引き下がった。  次に、牧村亜佐美が舞台装置の製作を依頼している鉄工所へ向かうことにした。これは、牧村のスタッフの一人からようやくきき出すことができた情報だった。事件の直後は周囲も警戒して、何一つ教えてくれなかった。しかし、どんなものでも時間が経過すれば必ず緩む、ということ。それが、この仕事をしているとわかる。  下町の商店街から二本離れた裏道に、その鉄工所はあった。スレートの建物は道路に面した大きな出入口を開放したままだった。鉄が焼けるような、それとも錆のような、あるいはオイルのような、独特の臭いがした。  鷹知は図面のコピィを見せて、ポールの昇降装置の話を尋ねた。その点について、既に充分に知っている、という素振りで臨んだためか、相手も抵抗なくそれを作ったことを認めた。頑丈に作られているから、今のところ故障もしていない、と自慢げに話した。スイッチはなく、リモコンで操作するものだという。 「あのポールが上下することは、誰が知っているんですか?」 「さあね、そんなことまでは、ちょっとね……」日焼けした男は白い歯を見せて笑った。「牧村さんが教えないかぎり、誰も知らないんじゃないの?」 「でも、完成して、テストをしたときに、立ち会っていた人がいるのでは?」 「マネージャさんはいたね」 「横川さんですね?」 「そうそう、あの人が死んだんだね」 「そうです。こちらへ横川さんがいらっしゃったことがありますか?」 「いや」彼は首をふった。 「ほかには、誰がいましたか?」 「うーん、どうだったかな」 「家を建設されていたときですよね? 工事の関係者が誰か見ていたのでは?」 「そうだったかな」 「鷲津伸輔氏はどうですか?」 「ああ、あの工事の頃、ちょくちょく見かけたね」 「よくご存じですか?」 「うん、鷲津さんの仕事も、ときどき受けるから」 「最近ですか?」 「いやあ、もう、近頃はとんとないね。引退なんじゃないの?」  手品で使う大道具や小道具、テーブルや箱などの骨組みだけを作る、と男は説明してくれた。それにパネルなどを取り付けたり、塗装をして飾り付けをするのは、また別のところらしい。マジシャン自身か、それともそのスタッフがあとの作業をする場合も多いのではないか、と彼は言った。 「つい最近も、棺桶くらいの箱の骨組みを作ったよ。牧村さんが自分で取りにきた」 「いつ頃ですか?」  男は工場の奥にある事務所へ入っていき、帳簿を調べてくれた。事件の二週間ほどまえのことだった。  工場を出て、地下鉄の駅へ向かって歩く。商店街を抜けるところで、小川令子から電話がかかってきた。 「私、一度、三澤さんに会ってみようと思うんですけど」小川は言った。「鷹知さんには話しにくくても、私だったら、きき出せるかもしれないって思ったの。無理だと思う?」 「いや、やってみる価値はあるかもしれない。どうも、僕は嫌われているみたいだから」小川は三澤と同級生だったのだ。可能性はある、と鷹知は考えた。「さっき、電話したら、今日の夕方コンサートだって話していた。えっと……」  鷹知は、その場所と時間を小川に教えた。 「それから、ポールの昇降装置は、鉄工所で確認ができた」 「へえ、凄いですね」 「警察よりも早かった」鷹知は言った。 「警察も、いずれは三澤さんのところへ行き着くと思う?」小川はきいてきた。 「わからない。横川さんの近辺から出てこなければ、ファンの人たちが誰か話さないかぎり、わからないことだ。三澤さんのことを覚えていたのは、鈴原さんだけだったかもしれない。ほかのメンバは、名前を認識していたかどうか」 「鈴原さんが警察に話すんじゃないかしら」 「うん、時間が経つと、だんだん、あの人が怪しいんじゃないかって思うことがありそうだね」 「だから、そうなるまえに話を聞きにきたって迫れば、どうかなって思うの」 「あまり脅かすようなことは駄目だ」鷹知はアドバイスする。「あとで拗《こじ》れる。証言はいずれにしても、確実な証拠ではないことを忘れないように」 「わかった。気をつけます。じゃあ……」 「あ、小川さん」 「何?」 「実はね、三澤有希江さんは、横川さんと結婚する約束をしていたらしいんだ」 「え? 本当」 「本人がそう言っている」 「それは変だわ。信じられない」 「どうして?」 「いえ……、とにかく、会ってみる」 「ああ、じゃあ、慎重にね」 「わかった」  電話が切れた。小川は真鍋と二人で行くのだろう、と想像した。真鍋が一緒ならば大丈夫だ、と彼はこのとき考えていた。      2  真鍋瞬市は、大学の近くの喫茶店で永田絵里子と会っていた。急に電話がかかってきて、話したいことがある、というので、すぐに会うことになった。ただ、そのときは事務所で小川と一緒だったので、大学で課題が再提出になったから、急いで行かないと、と嘘をついて飛び出してきた。 「頑張って」などと小川に言われてしまったので、かなり後ろめたかった。どうして、隠さなければならなかったのだろう、と不思議に思う。これが男の友達であれば、隠す必要がない。小川から執拗《しつよう》にひやかされたこともあるが、女の友達だと何故か意識的なレベルが違うことは確かなようだ。歩きながら考えた。おそらく、異性の場合は、長く友人関係が続かない。同性の場合に比べれば平均的に短期間だろう。そうなると、続かなかったことを説明するのが面倒だ。それくらいならば最初から秘密にしておいた方が楽である。変な詮索をされるのも鬱陶《うっとう》しい。理由はこんなところではないか、と彼は分析した。  大学の手前、牧村邸のゲートが見える例の喫茶店で待ち合わせた。真鍋の方がさきに到着し、しばらく窓の外を眺めながら待っていた。現れた永田は、短いスカートに長いブーツで、いつもどおり派手なファッションだった。頭の上にプラスティックの飾りをのせている。 「それは何?」真鍋はきいた。「簪《かんざし》?」 「それも、いいかもね」というのが永田の答だった。何が良いのかわからない。  メニューを見たが、結局、二人ともホットのコーヒーを注文した。  真鍋は、永田を見る。目が合うと、彼女はにっこりと微笑む。 「話って、何?」しかたなくこちらから質問した。 「あのね、どうしても聞いてもらいたいことがあったから。これって、真鍋君にしか話せないと思ったんだよね。いい?」 「べつに、うん、聞くだけなら……」真鍋は必死で考えたが、心当たりはない。何の話だろう? 「あのね、昨日、私、北島に呼ばれたの」 「北島先生? あ、レポートのことで?」 「うん」永田はそこで急に表情を強《こわ》ばらせる。「あの人、ちょっと、なんていうのか、えっと……、うん、とにかくね、私がいけないんだけどさ、ご飯奢ってもらったことあるし」 「へえ」真鍋は驚いた。「先生に?」 「そう……、けっこうね、高いレストランだったよ。ホテルの最上階で。絶対、真鍋君なんか行けないお店」 「そう決めつけられると、なんか抵抗あるけど」 「えっと、三回だから、一回が一万円としても、三万円」 「三回も?」 「でもさ、三万円くらいで私を落とそうってのが、せこいよね?」 「落とそう? 落とそうとしたの?」真鍋は身を乗り出した。これは凄い話だな、と思った。「本当の話?」 「嘘だったら馬鹿じゃない」永田は笑った。「今度は、温泉に行くかとか、うん、えっと、バリへ一緒に行こうとか、誘われちゃったんだから」 「バリって、どこかの島?」 「そうだよ。日本じゃないよ」 「そうだよね、名前からして」 「嘘、本当に知らないの?」 「旅行に誘われたわけ? 行けば良かったじゃん」真鍋は言った。 「そんな簡単にいかないって。行ったら、何されるかわからないじゃん」 「だいたいは、わかるんじゃない?」 「うん。ま、わかるけどぉ」永田は口を尖らせる。「そういうの、好きじゃないし。なんていうか、私、そういうつもり全然ないわけ」 「ああ、もしかして、永田さんは北島先生のことが好きじゃないってこと?」 「当たり前じゃない、そんなの」 「あれ、だって……、一緒に食事をしたんでしょう?」 「それくらいは、ほら、ものの弾みっていうか、臥薪嘗胆《がしんしょうたん》よ」 「臥薪嘗胆?」 「違ったか? あれ? えっと、だって単位が欲しいもの」 「つき合ったら、単位をくれるって言われたの?」 「そこまで露骨に言わないけどお、だけど、そうじゃない? そういう空気ってあるじゃない」 「うーん」真鍋は唸った。「で、昨日は、何だったの?」 「だから、このまえのレポートだよ」  コーヒーが運ばれてきたために話は中断した。  永田は泣きそうな顔になっている。今までこんな深刻な表情の彼女を見たことはなかった。課題のレポートの出来が悪くて呼び出され、なにか理不尽な要求でもされたのだろうか、と真鍋は想像した。そう想像するだけで腹が立ってきた。 「レポートが駄目だって言われたの?」真鍋はきいた。 「違う。できすぎだって」 「できすぎ?」 「どうして、こんなによく書けてるんだって言うんだよ」 「ああ……、そう」真鍋は息を吐いた。「そりゃあ、つまり、ちゃんと勉強したからじゃないかな」 「そうだよね。真鍋君に聞いて、本も読んだし、ディスカッションもしたもんね。私、自分で言うのもなんだけど、馬鹿じゃないもん。ちゃんと調べて、ちゃんと考えたら、そこそこのものは書けるわけよ。これまでは、なにも調べず、なにも考えずに書いていただけなのよ。その違いをわかってほしい」 「あ、そう……、たしかに、ギャップはあったかも」真鍋は頷いた。「それで、先生、どうしろって?」 「言い掛かりつけてくるわけよ」 「言い掛かり?」 「どうして、こんなのが書けたんだって言うの」 「へえ、言い掛かりだね、たしかに」 「だからさ、私、ボーイフレンドと一緒に勉強したんですって言ってやったわけ。ちょっとなんていうか、微妙じゃない。こいつ何って、思っちゃったし、ダメージ与えてやろうかなって。そうしたらさ、何て言ったと思う?」 「いや、想像もつかないけど」 「男ができたのかって」 「男ができた?」 「そう」永田は口を結び、コーヒーカップを片手で持ち上げた。「男ができるって、何よ、それ。いつの時代? セクハラじゃない? 私を軽《かろ》んじてるよね、これって。人権侵害だと思わない?」  真鍋は考えた。男というのは、この場合、自分のことだ。それは微妙にひっかかるので、冷静に考えられないのだ。 「どうしたの?」 「ちょっと待って」真鍋は片手を広げ、五秒ほど思考した。「ああ、そうか」 「何?」 「それはさ、男が勉強ができた、という意味かも?」真鍋は言った。 「は?」永田は目を丸くする。一度視線を逸らして、窓の外を眺めたあと、再び真鍋を見入った。「うわ、もしかして、そうかも」 「そうだとしたら、聞き間違えたんだね」 「そっか。ちょっと、誤解しちゃったかな。だけど、紛らわしいこと言うなって、思わない?」 「よくわからないけど」 「とにかくね、もうそのときはカッとなっちゃって、私。腹が立って腹が立って」 「単位はくれるって?」 「いろいろ質問してくるわけだ。本当にお前が書いたのかって。もう腹が立ってるからさ、返事してやらなかった。二度とデートなんかしてやらないって、ずっと考えてた」 「デートをしたの?」 「だから、ご飯を奢ってもらったこと」 「ボーイフレンドっていうのも、けっこう誤解を招きそうな気がする」真鍋は言った。しかし、言わなかった方が良かった、と後悔した。 「あれ、どうして?」 「いや、そんなこともないかも」 「真鍋君だとは言ってないから、大丈夫じゃん。とばっちり受けたら困るでしょう?」 「え、何? とばっちりって」 「だからさ、君のレポートが不可にされるかもってこと」 「そんな……」 「やりかねないよう、あいつ」 「嫉妬で?」 「そうそう」永田はうんうんと頷いた。「だから、しばらくはね、二人の関係はあまりおおっぴらにしない方が賢明だと思う」 「二人の関係って?」 「だから、私たちのこと」 「あ……、そう……」真鍋は頷いた。  そういえば、このまえは食事を奢ったんだっけ?  違う、あのときは、喫茶店だから、食事ではない。食事は、小川令子が経費で落とすからと支払ったのだった。その小川に、喫茶店で奢ったけれど、あれは椙田からもらった金だ。生活がいささか複雑になりすぎている。  危ないなあ……、と彼は考えた。  しかし、何がどう危ないのか、具体的なことはわからなかった。      3  小川令子は、ピアノのコンサートが終わる少しまえに会場に到着し、ロビィで待っていた。三澤有希江に会うためだった。小川は三澤の顔を知っていたが、しかし、もう十年以上も会っていない。今はどんなふうだろう、と想像した。大勢の中から見つけることができるだろうか。クロークの近くにあったベンチに座り、しばらく待った。  会場から人が出てきたので、小川は立ち上がって人の顔をつぎつぎにスキャンする。ロビィは、あっという間に大勢の人間でごった返した。正装に近い服装の人が多い。男も女も大勢いる。見回したが、三澤有希江らしい女性は見つからない。 「三澤様」という声が聞こえた。小川は振り返った。  フロントの係員が白い手袋の手を挙げている。小川はそちらへ接近する。係員と目が合ったので、慌てて視線を逸らす。ロビィの柱に一度隠れ、そこで周囲を見回した。係員がもう一度名前を呼んだ。ちょうど、会場から出てきた女性がこちらを見て、近づいてきた。すぐに彼女だとわかった。小川の横を通り、フロントへ行く。 「三澤様、お車が待っております」 「ありがとう」  小川は深呼吸をしてから、彼女の前に歩み出た。 「こんにちは、三澤さん」小川は微笑みをつくる。 「あ……」目を丸くして、三澤有希江は立ち止った。 「覚えている?」 「小川さん?」 「良かった……、覚えていてくれて。お久しぶり。突然でごめんなさい」 「え、どうして? コンサートに?」 「いえ、そうじゃないの。お話があって、ここで待っていたの」 「あの、でも、どういう……」 「鷹知さんから、この場所と時間を聞いたんです。彼の代わりに来たの。横川さんの事件のことで、お話があります」 「どうして、小川さんが?」三澤の表情が硬くなった。 「マスコミでも、警察でもありません。私、今は、民間の調査会社にいるの」 「鷹知さんと同じ会社?」 「いいえ、違います。あの、ほんの少しだけ、お話をさせて」 「困るわ。そんな急に……、ちょっと、これ、失礼じゃない?」 「ええ、それは、ごめんなさい。でも……、どうしても……」 「あまり時間がないの。今度にしてもらえないかしら。車が待っているんです」そう言うと、三澤は歩き始める。  小川は彼女についていった。ロビィのドアを出る。タクシー乗り場の方へ歩いた。 「車の中でもけっこうです。移動の間だけでも……」小川は言った。 「どうして、そんなことを?」三澤は早口で言う。 「いずれ、警察が来ます。私が知っていることは、いずれ警察も突き止めると思うの」 「貴女は何を知っているの?」三澤は立ち止まって、小川の方を見据えた。「何のことか知らないけれど、言いたかったら、警察に言ったらいいじゃない」 「ええ、もちろんそうします。でも、そのまえに、お話をしたいと思ったから」 「どうして?」 「友達だからよ」小川は答えた。  辺りを見る。タクシー乗り場はすぐそこだった。客が数人並んで、車に乗り込む順番を待っている。その向こうに何台も空のタクシーが待っていた。 「車の中で話しましょう」小川はトーンを落として言った。「お願い、大事なお話なの」  三澤は睨みつけるような険しい目だったが、小さく頷いた。  タクシー乗り場に並ぶものと思っていたが、三澤はそこを通り過ぎる。ロータリィの端に駐まっていた黒い車がヘッドライトをつけてから動きだした。そうか、ハイヤか、と小川は思う。  三澤が立ち止まったところで車が停車する。運転席から降りてきた男が手前にやってきて一礼した。彼がドアを開け、三澤が乗り込んだ。男がドアを閉めようとした。 「いえ、私も」小川も車に乗り込んだ。「失礼します」 「昔から強引な人だったわね」三澤が小声で言った。 「これ、ハイヤ? ここで、内密の話をしても大丈夫?」 「どういうこと?」 「運転手さんに話を聞かれてもいい?」小川はきいた。  運転手がドアを開けて、運転席に乗り込んできた。 「お友達なの」三澤は前の席に向かって言った。「少しだけお話がしたいんだけれど、どこか近くである?」 「そうですねぇ」運転手は困った様子だ。「この近辺では、ちょっと……」 「ロビィにラウンジがありましたけれど」小川は言う。 「満員だわ」三澤が言った。「家に戻ります」 「畏《かしこ》まりました」運転手は頭を下げる。 「お話は、そこで」三澤は、小川の方を見て言った。「よろしいでしょう?」 「ええ、もちろん」  久しぶりなのだから、いくらでも話ができそうだったのに、車内ではほとんど会話はなかった。小川は何度か当たり障りのない内容で話しかけたが、三澤はまったく口をきかない。よけいに気まずい雰囲気になった。  十五分ほどで、三澤邸に到着する。ゲートから入っていき、玄関の前まで車は進んだ。小川は、三澤の家のことは知らなかったが、この場所がどのあたりなのかはだいたいわかった。近くに高層のホテルが見えたからだ。都心である。  家政婦が玄関のドアを開けた。三澤有希江に小川はついていく。それ以外に選択肢はない。  階段を上がった廊下には絨毯《じゅうたん》が敷かれていた。最初の大きなドアを三澤が開ける。彼女は振り返って、小川を睨むように見た。  その部屋に二人は入る。ひんやりとした空気だった。ソファとテーブルが手前にあり、奥にデスクがある。テーブルにもデスクにもなに一つのっていない。  三澤は片方のソファに座った。手前で立っていた小川に、彼女は片手で座るように促した。 「ありがとう」小川はそこに腰掛けた。革製のソファで冷たかった。「あの、どうも、無理をいってごめんなさい。でも、こうでもしなければ、とてもお会いできないと思ったから」 「どんな、お話ですか?」三澤がきいた。 「ええ……」小川は頷き、息を吸った。「横川さんが発見されたポール、あれは機械式になっていて、上下に動くようにできている。リモコンで操作ができる。三澤さん、もちろん知っていたのでしょう?」 「知りません、そんなこと。どうして私が?」 「横川さんを、あそこへ運んだのは、貴女だからです。車は、牧村さんのスタッフが使っているバン。運転免許を持っているよね? 学生の頃、乗せてもらったことがあるわ」  小川は三澤を見た。その視線を跳ね返すように、三澤もこちらを黙って見据えていた。 「牧村さんは、ご存じなの?」小川はきいた。「私が最初に疑問に思ったのは、駐車場に呼び出されて、そこで会えなかったとき、何故、牧村さんは横川さんに電話をかけなかったのか、ということ」 「かけたのかもしれない」 「いえ、その記録はありませんでした」 「地下だったから、無理だと思われたのかもしれない」 「そのまま、朝まで忘れていたわけ?」小川は尋ねた。 「何を証拠に言っているのかわからないけれど……」 「この屋敷のどこかに、車があるはずです」小川は鎌をかけてみた。  三澤は黙った。そのこと自体が認めているようなものだ、と小川は確信した。 「私に話したいことって何なの?」三澤の声が高くなる。 「パーティから、早く帰った理由は?」 「とにかく、私は関係がありません。良かったわ。早く帰ってきて」 「逆よ。あの場にいれば、アリバイが成立したのに、横川さんが出ていったあと、すぐに三澤さんも立ち去った。何故、警察に知らせないの? 関係がないのなら、立場を説明しても良いと思うんだけれど」 「だって、関係ないんだもの」 「横川さんとは、どんな関係だったの?」小川は尋ねた。そして、鷹知から聞いた話を持ち出した。「婚約しているって聞いたんだけれど、でも、それは信じられない。貴女、男性に興味なんてなかったはず」  三澤の表情が明らかに変わった。喉が痙攣するように震え、小川を捉えていた視線は、しだいに焦点が合わなくなった。 「私は……」声が震えていた。「関係ないのよ」 「正直に話すのが、一番良いと思う」小川は声に力を込めて言った。「私にできることがあれば、力になるよ」 「横川さんと私は、婚約していた」三澤は言った。「本当に」  小川はびっくりした。しかし、それを表に出さないように、瞬時に切り換えた。ここが正念場だ、と彼女は考える。 「そうなの」小川はまず頷いた。そう、驚かないように、相手を安心させなければ、と思ったからだ。 「結婚なんかしたくなかったけど」三澤は下を向いていた。目から涙が溢れて、彼女の膝に落ちたのが見えた。「でも、あの方のために……、私は……」 「あの方?」小川は言う。「誰のこと?」 「牧村さん」三澤は答えた。 「牧村さんのために、どうしたの?」 「もういいわ」三澤は顔を上げた。息を吸い、口を歪ませる。「もうどうなったっていい。横川さんは、死んで当然の人だった。酷い人だったの。だから、天罰です」 「じゃあ、どうして婚約なんかしたの?」 「だから、牧村さんから引き離すために、私が犠牲になろうと思ったの」 「犠牲? どういうこと?」 「あの二人が結婚するよりはましってこと」  小川は無言で頷いていた。なんとなくは、理解できた。けれど、充分ではない。少し冷静になって、説明する言葉を探すと、とたんに理解ができなくなりそうな予感がした。 「横川さんを刺し殺したの?」小川は落ち着いた口調で質問した。「私になにを言っても、警察には伝わらない。真実を教えて。それだけ」 「私が刺しました」三澤は言った。  躰が凍るほど小川は緊張した。 「ポールを使って、車から、横川さんを降ろしたの?」 「そう。一人だったから、そうするしかなかった」 「どうして、そのままにしたの?」 「一度は降ろした。でも、父が来たの」 「お父様が?」 「私のことを心配して、迎えにきたから」 「牧村さんのところにいるって、どうしてわかったの?」 「あの屋敷に、私が入り浸っているから、ええ、連れ戻しにきたのね」 「お父様も、あそこのゲートを開けられるのですか?」 「いえ。でも、インターフォンを鳴らして、家政婦さんを起こした。もともとは父の土地だし、父が投資して建てた家。土地も、まだ完全には牧村さんのものではないし、借金の抵当になっているの。貸しているようなもの」 「お父様に見られたくないから、死体をあそこに上げたの?」 「ゲートの外に父がいるのがわかった。家政婦さんがゲートを開けるまえに、なんとか隠さないと……。だから、ああするしかなかった」 「お父様は、ご存じなの?」 「ええ、そのときは、誤魔化せたけれど、事件のことを知って、私がやったことだと、わかったと思う」 「乗ってきた車は?」 「うちのガレージにまだある。ナイフもそこに」三澤は窓の方を見た。「でも……」  三澤は顔を上げた。  震える息を吸い込み、じっと小川を睨む。 「警察が来るまえに、そんなものは始末できる。私は証言しない。貴女も、誰にも言わないで。父が私を守ってくれるはずです」 「私が黙っていても、お父様が守ってくれても」小川は言った。「貴女がしたことは許されないことです」 「わかっている」三澤はまた下を向いた。 「よく考えて、自分の判断で行動して」 「わかっている」 「希望を捨てないで」 「希望?」三澤は顔を上げた。 「ええ」小川は、自分も泣いていることに気づいた。 「どんな希望がある?」 「生きていれば、希望はあるわ。最善を尽くすの。逃げないで」 「そうね」三澤は泣いた目のまま微笑んだ。 「諦めないで」 「変わってないな、貴女」 「そう? 君も変わってないよ。強い人だった。そうでしょう?」 「大好きだった、貴女のこと」三澤は言った。「また会えるなんて、思わなかった……。ありがとう、来てくれて」      4  三澤家を出たとき、小川は目が痛かった。おまけに、汗をかいている自分にびっくりした。振り返って、ゲートを見た。そこから、今にも怪物が飛び出してきそうな気がした。怪物というのは、化け物ではない。ナイフを持った女でもない。白くぼんやりと輝く天使のようなものに近かった。  彼女は左右を見て、大通りが近そうな方角へ歩くことにした。まず携帯電話をバッグから出して、鷹知をコールした。最初、彼は出なかった。しかし、もう一度かけ直したらつながった。 「あ、小川です。今、大丈夫?」 「うん、電車から降りたところだよ」 「凄いことになったわよ。三澤有希江に会ってきたの」 「会えた?」 「会えた。あのね、横川さんをナイフで刺したって、自供したのよ」 「まさか」 「本当。自分が刺して、バンで運んだって。それで、ポールに引っかけて車から降ろしたことも」 「どうして、あそこへ運んだんだ?」 「うーん、たぶん、牧村さんと関係があるのね、彼女」 「関係?」 「横川さんとの婚約は、牧村さんを彼から引き離すためだったって言っていた」 「それは、また……」 「もしかして、知っていたの?」 「いや、そこまでは。実は、調査の依頼人は、三澤宗佑氏なんだ。彼女の父親だ」 「そうだと思ってた」 「知っていたの?」 「うん、たぶん、そうかなって」 「僕も、三澤さんのお嬢さんが怪しいと考えていた。おそらく、三澤氏も同じだろう。娘を救いたいから僕に依頼したんだ。警察の動向を知りたかったんだろう」 「私たち、よけいなことをしたわけね」 「これから、三澤氏と会うことになっている。グッドタイミングだ」 「どうする? 警察には黙っているの?」 「どうしたら良いかは、まだ決めていない。でも、職業倫理としては、依頼人の秘密を漏らすことはありえない。できないよ」 「やっぱり、そうなるのね」小川は溜息をついた。  鷹知はそうでも、自分はフリーだ。友人の秘密を知ってしまった。どうしたら良いだろう。 「動機は何だと思う?」鷹知がきいた。「横川さんと喧嘩をしたのかな?」 「いいえ、よくわからないけれど、私が感じたのは、彼女は、牧村さんを崇拝しているんだと思うわ。牧村さんから遠ざけるために、横川さんと婚約したし、それをさらに強化したっていうのか、もっと遠ざけようと思ったんじゃないかしら」 「ふうん、複雑そうだね。わかった、どうもありがとう。君に行ってもらって良かった。気をつけて帰って」 「え?」 「真鍋君は?」 「彼はいないよ」 「一人で?」 「そう」 「どこにいる? もう家から離れた?」 「ええ……、今、出てきたところ」小川は後ろを振り返った。誰もいない。この道を歩いているのは自分一人だった。急に恐怖を感じて、心臓の鼓動が速くなった。 「早く賑やかなところへ行った方がいい」 「わかった」 「あ、もう電話を切るけれど、このまま電話をしている振りをしていた方がいいかもね」 「そうする」  しばらく気持ちを引き締めて歩いた。表通りに出て、すぐにタクシーを拾った。車のドアが閉まったときに、自分が歩いてきた道を彼女は見た。そこにナイフを持った天使がいるような気がした。三澤邸は見えない。誰も歩いていなかった。      5  鷹知は、パーティが行われている会場のすぐ外で三澤を待っていた。受付には既に誰もいない。会場は広く、立食形式。何百人といるようだ。大勢が始終出入りをしていたので、関係者に紛れて中の様子を見ることは容易《たやす》かった。ときどき覗いて、三澤がどこにいるのかを探したけれど、見つからなかった。ちょうど、外のソファに腰掛けたとき、電話がかかり、ほとんど同時に会場の出口に三澤が現れた。彼一人だった。ラウンジにも大勢の人がいる。ただ、鷹知がいた付近は少し離れていた。 「あ、こちらです。見えます。今行きます」鷹知は三澤を迎えにいった。  二人は、そのソファまで戻った。 「お忙しいところ、申し訳ありません」鷹知は頭を下げた。 「なにかわかったのかね?」三澤はポケットから煙草を取り出しながらきいた。 「ポールに死体を上げた理由がわかりました」 「あまり、興味はないね」三澤は視線を上げず、火をつける。 「あの夜、お嬢様を迎えに牧村邸へ行かれましたね?」 「誰が?」 「三澤さんがです」 「私が?」 「お嬢様は、三澤さんから死体を隠すために、ポールに死体を上げたのです。そのことに気づかれたのは、翌日だったと思いますが」  三澤は煙を吐き、煙そうに目を細めた。 「車は、まだガレージですか?」  三澤は黙っていた。小さく舌打ちをしたようだった。自然に出たものか、故意に鳴らしたのかはわからない。 「私は、警察に知らせるようなことはしません。また、口止め料を請求するつもりもありません」鷹知は静かに言った。「依頼された調査を遂行しているだけです」 「横川を殺したのは、私だ」三澤は顔を上げて言った。そして、煙草の火を赤くしてから、少し横を向いて煙を吐いた。  鷹知は驚いた。だが、黙っていた。言葉を思いつかなかった、というよりは、相手がまだなにか話すだろう、と予感したからだ。邪魔をしない方が良い。 「娘は、あの男を嫌っていた。それなのに、何故か、婚約をした。理由はわからないが、おそらく、なにか弱みを握られているのだろう。横川は、もちろん金が目当てだ。奴は、牧村亜佐美とも上手くいっていなかった。しかし、そういう人間に限って、自分ならば上手く立ち回って、まとめてみせると勘違いしていたんだな」三澤はいつもと変わらない、穏やかで、落ち着いた、ドライな口調だった。「まあ、少々足りないところがあった。憎めない奴ではあったがね。ただ、どんな理由があれ、娘をやることはできない。だから、殺した」 「三澤さんが……、ご自身で、ですか?」 「そうだ」 「いつ、どこで、ですか?」 「十一時頃だね。あのホテルの駐車場だ」 「地下の?」 「そうだ」 「駐車場のどこでですか?」 「やったのは、車の中だよ。そこに奴がいたからだが」 「お嬢様も?」 「そう。横川と一緒だった」 「では、お嬢様は」 「ああ、見ていた。可哀相に……」 「止めなかったのですか?」 「止めなかった。彼女も望んでいたことだったのだろう」 「では、車を運転して、お二人で死体を運んだのですか?」 「いや、娘は途中で帰した。タクシーで帰った」 「何故、死体を牧村の家に?」 「車だけでも戻そうと思ったんだ。少々動転していた。牧村の家についたら、今度は、ここには置いておけないと思った」 「車にも血痕があったのでは?」 「ああ、もちろん。私の洋服にも返り血がついた。それに、車内に私の髪の毛が落ちた可能性もある。やはり、車ごと持って帰らねばならない、と考えた。しかし、死体はまずい。ここに置いておくべきだと」 「それで、ポールで?」 「ああ、一人だったので、あれを使った。車にリモコンがあった」 「ちょっと理解できませんが」 「自分でも理解できないよ」三澤は微笑んだ。「ただ、もう明け方だった。ポールで車から引き出し、もう一度、フックにベルトを直接引っかけ直して、死体を掲げてやった。空へ上がっていくのを、下から見ていたんだ」三澤は視線を上へ向ける。  鷹知は、三澤を黙って見ていた。彼は再び視線をこちらへ向け、煙草を吸い、煙を吐いた。目を細め、もう一度煙のない溜息をついた。  鷹知は考えた。どうすれば良いだろう。しかし、答は簡単には見つからない。 「もし、今のお話が本当ならば、もう私の調査の必要はありません。仕事もありません。弁護士を依頼される方がよろしいでしょう」 「そうかもしれないな」三澤は笑った。  彼は腰を浮かせ、灰皿へ腕を伸ばす。煙草の先を落としてから、そこへ捨てた。 「そろそろ戻らなければ」三澤は立ち上がった。  鷹知も立ち上がった。 「良い仕事だった。支払いは小切手でする。いつでも取りにきてくれ。私がいなくても大丈夫なようにしておく」  調査の料金については、具体的な額を決めていなかった。まだ請求もしていない。  三澤は片手を軽く上げ、会場の方へ歩いていった。途中で振り返ることもなく、まったく普段と変わらない足取りだった。      6  真鍋は、喫茶店を出たところで、永田絵里子と別れた。時刻は六時を過ぎている。彼女は大学の方へ歩いていった。友人と約束がある、と話していた。どんな友人かはもちろん尋ねなかった。もしかしたら、その友人も教員なのではないか、と想像してしまったが、その想像も慌てて掻き消した。  牧村邸のゲートの前を過ぎたとき、赤いスポーツカーがカーブをこちらへ向かって走ってきた。減速して、牧村邸のゲートの手前で止まった。真鍋は車が珍しいので、立ち止まって見とれていたが、ウィンドウが下がり、運転席から覗いた顔を見て驚いた。W大の西之園だった。 「こんにちは」真鍋は道を戻って、車のすぐ横まで行く。 「一緒に行く?」西之園はゲートの方を指さした。牧村邸のことのようだ。「乗って」  そう言って、助手席を指さす。  真鍋は躊躇《ちゅうちょ》なく車に乗り込んだ。  西之園は携帯電話を耳に当てている。 「あ、お約束をしています西之園でございます。ただ今、門の前に到着いたしました。はい……、お願いします」  電話はすぐに終わった。 「凄い車ですね」真鍋はそちらをさきに言った。「何をしに、ここへ来たのですか?」 「車が?」西之園は言った。「私を運ぶためだと思うけれど」  ゲートが開いた。  車は前進し、敷地の中へ入っていった。 「いいんですか? 僕……」真鍋は尋ねる。「あの、何をするんですか?」 「黙っていれば良いわ」西之園は前を向いたまま澄ました表情だ。  車は屋敷の玄関の前で、一度切り返して停まった。エンジンが止まり、西之園が車から降りた。真鍋も急いで外に出る。ドアを閉めるときに、どれくらいの力で押せば良いのか迷ったが、聞き慣れない高い金属音を立てて、それは閉まった。少なくとも壊れたようには見えなかった。  西之園は玄関の方へ歩く。その五メートルほど後ろを真鍋はついていく。ドアを開けたのは年輩の女性だった。以前に見た顔である。  西之園は無言で頭を下げる。真鍋は早足になって彼女に追いつき、建物の中へ入った。  案内されたのも、以前と同じ部屋だった。座ったソファの位置も同じだ。このまえは鈴原と永田が座っていた位置に、今は西之園が座っている。案内してきた女性は部屋から出ていったので、二人だけになった。  西之園は真っ白のジャケットに黒いジーンズだった。すぐ横に彼女がいるだけでSFみたいに現実離れした世界にいるような気がした。ここが宇宙船の中だと思えるほどだった。たぶん、地球の家を真似て作られた部屋だ。 「真鍋君は、パスタは何が好き?」西之園が突然きいた。 「え……、パスタですか?」真鍋は必死で考える。「いや、あれって、形が違うだけですよね」 「そうなの。良い着眼ね」西之園は言った。「でも、形が違うことって、大事じゃない?」 「はい、まあ、そうですね」 「色が違うよりも、ずっと大事だと思う」  何の話だろう、と必死になって考える。しかし、なにも思い浮かばない。部屋の中を見回したが、この話題に相応しいアイテムはなかった。事件だろうか、それとも、近い将来のことだろうか。想像を巡らせるものの、まったく思い当たらない。  ドアが開き、牧村亜佐美が現れた。臙脂《えんじ》色の輝くようなスーツを着ていた。舞台衣装のようだった。もしこれが普段着だとしたら、趣味が疑われる、と真鍋は思った。 「こんにちは」牧村は西之園をじっと見た。「どこかで、お会いしましたか?」 「いいえ、初めてです」西之園はお辞儀をする。「突然にもかかわらず、ありがとうございます。こちらは……」真鍋の方に片手を向ける。「私のボディガードです」  その言葉に、真鍋はもう少しで声を上げるところだったが、必死に堪えた。彼は牧村にお辞儀をする。マジシャンはじっと彼を見つめたが、すぐに視線を逸らせた。まえに会っていることを覚えていないのかもしれない、と真鍋は思った。 「ボディガードが必要な用件ですか?」座りながら、牧村は言った。声は軟らかく、表情にも余裕の笑みが浮かんでいた。「警察とはどんな関係なの? 電話の説明では、どうもよくわかりませんでしたけれど」 「警察との関係は、職業上の規定で、詳しくは申し上げられません」 「鷲津さんともお知り合いだとか」 「はい。彼、どうしているのでしょう?」西之園は首を傾げた。 「この頃、見かけないわ」牧村は簡単に答える。「どこかで、仙人のような生活をしているんじゃないかしら。そういうのが夢だっていつも言っていたから」 「そう、私もそう思います」 「どういうご関係?」 「いえ、どういう関係もありません」  数秒間沈黙があった。  牧村は脚を組んだ。顎を少し上げる。  さあ、話は何なの、という態度に見えた。 「単刀直入に申し上げますが」西之園は言った。「横川さんを殺したことを、三澤有希江さんが認められました」 「え?」声にはならなかったかもしれないが、牧村の口はその形になった。顔は一瞬で曇った。 「ホテルの駐車場でナイフを使って殺害した。車の中だったそうです。その車をここまで運転してきた。そして、あのポールで引き上げ、車から引き出した。その車は、現在は三澤邸のガレージに隠されています。警察の取り調べはまだです。今日なのか明日なのかは、わかりません。でも、時間の問題でしょう。書類の発行にも手続きがいりますからね」 「貴女は、それを言いに?」牧村は小声できいた。 「そうです」西之園は頷いた。「三澤さんは、横川さんと婚約されていたそうですが、しかし、それは牧村さんから彼を遠ざけるためだった、とおっしゃっているそうです。どう思われます? 最近、三澤さんに会われましたか?」 「貴女は、いったい、どんな立場で……」 「私は西之園です。それ以外に私の立場はありません」 「何のために、ここへいらっしゃったの?」 「疑問を持ちましたので、おききしたいと思ったのです」 「私に? 私は……」 「横川さんを殺したのは、貴女ではありませんか?」西之園は尋ねた。今までと同じ口調だった。歯切れの良い発声で、まるでテレビのキャスタがニュースを伝えているようにクールだった。そんな感じに、真鍋には聞こえた。 「何を……」牧村は息をもらし、顔は笑った。そして、一度真鍋を見たが、すぐに視線を西之園に戻した。「私にできるはずがないでしょう?」 「車を警察が調べれば、わかってしまうのでは? 三澤さんは、まだ処分をしていなかったようですよ」 「どうして……」牧村が目を見開いた。本当に驚いた、という顔に見えた。 「どうしてでしょう。保険のようなものかしら。誰にだって、不安はあります。信頼できるパートナでさえ、いつ裏切られるかわからない。保険をかけておきたくなったのかもしれませんね」  牧村は目を細めた。もう笑みはすっかり消えていた。頬はやや紅潮している。膝の上で手を握り締めていた。じっと動かない。息をしているようにも見えなかった。  また数秒間の沈黙が過ぎる。 「三澤さんは、貴女のために、すべてを……」西之園が言った。 「そうです」牧村が遮った。今までで一番力のある声だった。「あの人には罪はありません」  牧村は目を瞑った。そして、震える息の音だけが聞こえた。  息を吸い、息を吐き。  躰が震えだすのを、堪えるかのように。  拳は砕け散るかのように硬く。  再び開かれた眼は、しかし、さきほどよりは優しい形になっていた。  真鍋は横にいる西之園を盗み見た。  姿勢良く背筋を伸ばして座っている。微動だにしない。じっと牧村を見据えていた。 「殺したのは、私です」牧村は言った。「悔いはありません。いえ、もちろん、悔いはある。でも、これを選んだんです。これよりも私らしい選択は、なかった」 「横川さんを排除した理由は?」西之園がきいた。 「いろいろあるわ」牧村は優しく微笑み、それと同時に目から溢れた涙が頬を素早く伝った。「沢山ありすぎて、とても全部は言えません。忘れてしまったものもある。でも、彼を生かしておいては、もう生きていけなかったの。私も、そして有希江も……。辱《はずかし》められて破滅するよりは、勇気ある死、それに賭けました」 「車の中に、仕掛けがあったのですね?」西之園が尋ねる。 「お願いが一つだけあります。それを公開しないでいただきたいの。私は、マジシャンなのです」 「わかりました」西之園は頷いた。「なんとかしましょう」  西之園はすっと立ち上がった。 「では、これで」彼女は横にいる真鍋を見た。  彼も慌てて立ち上がった。  ドアから出ると、家政婦が通路をこちらへ歩いてきた。トレィにカップを三つのせていた。 「すみません。もう終わりました」西之園は言った。「真鍋君、お茶だけもらったら?」 「いいえ」真鍋はぶるぶると首をふる。 「ごめんなさい。私は猫舌なんです」西之園は家政婦に微笑んだ。      7  西之園の車に乗って、真鍋は牧村邸を後にした。 「どういうことだったんですか? つまり」彼は尋ねた。 「真実なんて、誰にもわからない」西之園は言った。「みんなが、自分が認識していることを正直に話しても、それは真実ではない。認識が間違っている可能性は常にある」 「本当に、牧村さんが、横川さんを殺したのですか?」 「さあ、どうかしら。でも、少なくとも、彼女にはその意思はあった。それはつまり、殺したも同然なのかもしれない」 「三澤さんも、横川さんを殺したと言ったんですか?」 「ええ、鷹知さんから連絡があったの」 「凄い、あっという間に急展開したんですね」 「今のは、三澤有希江さんの方の話で、それを聞いたのは、小川さん。鷹知さんは、三澤さんのお父さんに会ったそうだけれど、その三澤さんも、自分が横川さんを殺したと自供したらしい」 「鷹知さんが、そう連絡してきたんですか?」 「ええ」 「三人も殺人犯がいるんですね」真鍋は言った。 「そう」西之園は頷いた。「三人とも、殺したいという気持ちはあった。さて、誰が実際にやったのか」 「え? 誰なんですか?」 「それは、警察が調べると思う」西之園はこちらを向いて微笑んだ。「で、どうする? どこへ行く?」 「えっと、ここでいいです。そこから地下鉄に乗ります」 「小川さんに会って、話をするのね?」 「はい、そうです」 「私も加わりたいけれど、今夜は駄目。約束があるから。またね。ボディガード、ありがとう」 「失礼します」真鍋は車から降りた。「どうもありがとうございました」  歩道に立って、走り去る彼女の車の音を聞いた。バイオリンの低音のような音だった。      8  真鍋が事務所のドアを開けると、ソファで鷹知と小川は向き合っていた。 「あ、真鍋君、良いところへ来たわ」小川が言った。「変な話になっているの。親子どちらが殺人犯なのかって」 「三澤さんのことですね」真鍋はシンクで手を洗いながら言った。「お茶を出しましょうか?」 「お願いお願い」小川が答える。 「それよりも困ったのは、警察には知らせられないことなんだ」鷹知が言う。「まいったな。なんとか警察が独力で真実に迫ってくれないと」 「今、西之園さんと会ってきたんですよ」真鍋は言った。 「どこで?」小川がきく。 「一緒に、牧村亜佐美と会ってきました」 「えぇ!」小川が立ち上がった。「どうして?」 「まあまあ」真鍋は空中に手形を押す。 「あ、僕、西之園先生には相談しておいたんだ」鷹知が話した。「それとなく、警察側へ情報を流した方が良いと思ってね。彼女なら、こちらの事情をわかってもらえそうだったし」 「ああ、そうね、それは私も賛成」小川が言った。  真鍋がお茶を淹れてテーブルに運ぶ間、二人は黙って待っていた。淹れたのは煎茶で、これは最近、真鍋の実家から届いた荷物の中にあったものだった。 「で、どんな話をしたの?」小川が座り直してきいた。 「牧村さんは、自分が横川さんを殺したと言いました」真鍋は話した。 「えぇ!」小川は目を丸くする。 「だって、それは……」鷹知が首を横にふった。 「ええ、僕も、それはありえない、と思ったんです。そのときは」真鍋は話した。「どうも、牧村さんと三澤さん、お互いに庇い合っているようですね」 「うん、なんというのか、そういう親しい関係だったようだね」鷹知が言った。 「ええ。それでいろいろ説明がつくわ」小川が頷く。 「三澤さんが自分が殺したと言った、という話を聞いて、牧村さんは告白する気になったのだと思います」真鍋は話した。「実は、殺したかったのは自分なんだと」 「牧村さんが、三澤さんに依頼して殺してもらった、ということかしら?」 「違います」真鍋は否定する。「なにかの仕掛けを使って、牧村さんは自分の手で、横川さんを殺すつもりだったのです。その仕掛けは、マジックの小道具を利用したものだったと思います」 「仕掛け?」鷹知が眉を顰める。「具体的にどんなもの?」 「わかりません。それが、三澤さんの家に隠されている消えた車に載っているはずです。僕の想像では、棺桶のような箱だったのではないでしょうか。そこに横川さんが隠れて、ファンたちを驚かす、というようなマジックを見せることになっていたんですよ。あの夜、駐車場で。たとえば、最初箱を見せても、誰もいない。蓋をして、もう一度開けたら、そこから横川さんが出てくる、というような感じじゃないかな」 「牧村さんは、それを知っていたのね?」 「もちろんです。彼女が考案して、横川さんに頼んだのかもしれません。でも、実際は、横川さんを騙して、彼を殺す計画だったわけです」 「どうやって殺すの?」 「それは、その箱に仕掛けをしておくんですよ。簡単でしょう? 隠れている場所は身動きができないわけですから。そこで、機械的にナイフが飛び出せば……」 「うわぁ」小川が顔をしかめた。「それ、本当なの?」 「いえ、本当はどうなのか知りません」真鍋は肩を竦めた。「でも、まあ、だいたいそんなふうだったのだと思います。説明はつくでしょう?」 「じゃあ、えっと……。あれ? それだったら、どうして、牧村さんのところに死体があったの? 牧村さんが朝になって運んだ、ということ?」 「いえ、それでは牧村さんの車が駐車場に残ってしまいます」真鍋は言った。 「そうか、三澤さんが、牧村さんの車を移動させたんだ」小川は思いついた。「それで、牧村邸で夜の間、ずっと待っていた。牧村さんは、ファンと別れたあと、朝方、スタッフの車を運転して、死体を運び入れた」 「いや、駐車場の記録が残っている」鷹知が言った。「センサが自動車のナンバプレートを自動判別するんだ。それで、何時にどの番号の車が出ていったかがわかる」 「ナンバプレートの前に、プリントした紙を貼っておけば、機械も間違えますよね」真鍋が言った。 「ああ……」鷹知が真鍋を見た。「そうか」 「牧村さん、そこまで考えていたの?」小川は言った。 「考えていたと思います」真鍋は頷いた。「そのあと、バンに載っている箱を解体するか、燃やしてしまって証拠隠滅すればお終いです」 「どうしてそうしなかったわけ?」小川は尋ねた。 「ええ……」真鍋は一度頷いた。「牧村さんの仕掛けた箱に入るまえに、三澤さんが横川さんを殺してしまったんじゃないかと」 「え?」小川は口を開ける。「それじゃあ、やっぱり、三澤さんが?」 「そこで、すべてが狂いました。三澤さんは、車内に血が飛び散った車を運転して、駐車場を出ました。牧村さんは、肝心の車がなくなっていることに気づいたと思います。もともと、牧村さんは、三澤さんには何も知られたくなかった。ただ、自分はお酒を飲むから、車を運転して家に届けてほしい、と頼んでいただけです。でも、自分の車は残っていて、別の車が消えていました。だから、何が起こったのか、考えた。つまり、三澤さんに知られてしまった、と思ったでしょう」 「だったら、連絡をしたら……」 「そんな危険なことはできません。あくまでも、三澤さんを無関係の人間だということにしておきたかった。ファンの人たちも、すぐに帰ってしまった彼女のことは覚えていないだろう、と牧村さんは考えた」 「朝、家に戻ったら、そこに三澤さんが待っていたの?」 「そうです。三澤さんは、ポールを使って死体を降ろして、父親が迎えにきたとき、それをもう一度ポールに上げて隠しました。でも、父と一緒には帰らなかった。自分は牧村さんを待って話があるとでも言ったのだと思います」真鍋は話す。「朝まで待っていたのは、もちろん牧村さんに会いたかったからです。電話で話すわけにはいきませんでした。記録が残るからです。それに、スタッフの車も、牧村さんの家に置いておくことはできませんでした。箱の中で殺すはずだったのに、そうではなかった。車内に血が飛び散っていました。だから、警察が来るまえに、その車は三澤さんの家へ運ぶ必要がありました。ただ、死体だけは、そこに残しておこう、ということになったのだと思います」 「それを、牧村さんと三澤さんが相談をしたということ?」 「ええ、たぶん。いえ、もちろん、はっきりとはわかりません。ただ、だいたいこんなふうだったのかなって思っただけです」 「一度、娘を迎えにいった三澤氏は、あとから、娘が殺人に関わっていることを知ったわけだ」鷹知が言った。「車は、もうとっくに処分してしまったのではないかな。娘を守るために」 「いえ、どうでしょうか。車には、牧村さんが横川さんを殺そうとした仕掛けがあったんですよ」真鍋は言った。「三澤有希江さんだけが罪に問われることになった場合に、それが、首謀者は誰だったのか、という反論の証拠になると思うんです」 「なるほどね」鷹知は頷いた。 「保険ですよ」真鍋は言った。 「保険ねぇ……」小川は難しい顔をしたまま何度も頷いた。「凄いわね、真鍋君、感心しちゃう」 「まあ、そういうようなことを、西之園さんが言っていたわけです」真鍋は微笑んだ。 「え、そうなの?」小川は目を丸くし、何度か瞬いた。 「いえ、実際に説明を受けたのは、ほんの一部なんですけど、わからないところは、僕なりに補足してみました」  真鍋は湯呑みを持ち、お茶を啜った。 「ああ」彼は溜息をつく。「しみじみ美味しいですね」 「うーん、で、鷹知さん、どうするの? これから」小川は鷹知に尋ねた。 「西之園さんが知った以上、もう、僕たちが出る幕ではない。西之園さんが警察にうまく伝えてくれると思う。僕が依頼主の秘密を漏らしたわけではない。西之園さんはたぶん、そのためにわざわざ牧村さんに会いにいってくれたんだ。あくまでも彼女や警察の捜査によって、事件が解決したことになる」 「三澤さんは、どうして鷹知さんに調査を依頼したの?」 「知りたかったんだよ、何がどうなっているのか。それが本心だと思う。でも、一番はやっぱり、警察がどこまで知っているのかを把握したかった。僕を通じて、そのあたりを確認したかったわけだ。いざとなったら、全力でお嬢さんを救う覚悟だったのだと思う」 「調査費は?」 「払うと言われたけれど、今回の調査は、仕事としては回収できないよ」 「え、無駄骨だったということ?」小川がきいた。 「まあ、そうだね。言葉は悪いけれど」 「ちょっとくらい、もらっても良いじゃないですか?」真鍋が言う。「だって、費用もかかっているんでしょう?」 「こういうときに、じっと動かないのが、コツなんだよ」鷹知は小さく首をふった。 「え、何のコツですか?」 「長くこの商売を続けていくコツ」鷹知は口もとを緩めた。 [#改ページ] エピローグ [#ここから5字下げ]  だが実を言うと、彼女が自分の不幸について、恥じらいもせずに話したのは、もうひとつの不幸、彼女の心の奥底でなお炎を放っていた真の不幸を隠すためだった。 [#ここで字下げ終わり]  三日後に、スターマジシャンが逮捕される、というニュースが流れた。また、名前は出ていなかったが、共犯者の女性が一名逮捕されたことも記事にあった。三十代の無職の女としか書かれていなかった。  結局のところ、どちらが本当に殺したのか、わからないのではないか、と真鍋は思った。両方が自分がやりました、と供述したらどうなるのだろう。少なくとも、自供は証拠にはならない。自供に基づいて、どんな証拠品が得られたかということが問題になるはずだ。  それに関連して、小川令子はこんな話をした。 「ほら、スピードを出しすぎで、パトカーに追いかけられたとき、車を停めて、すぐに乗っていた人みんなで降りるわけ。そしてね、警官に、みんなが私が運転していましたって言い張るわけよ」 「そうしたら、違反で捕まらないって言いたいんですか?」真鍋はきいた。 「捕まらないわよ。誰が運転していたのか特定できないじゃない」 「全員捕まりますよ」 「そんな横暴はできないと思うわ」 「都市伝説っていうやつですか、それ」 「違う違う。あとね、飲酒運転の検問で止められたときはね、車から降りるまえに、その場でウィスキィをがぶ飲みするの」小川は話した。「そうすれば、今酔っ払ったのか、まえから酔っ払っていたのか、わからないでしょう?」 「はいはい。それも、聞いたことありますよ」 「実際にやった人いないかしら」 「そうまでする知恵があったら、飲まなきゃ良いじゃないですか。そんな事態のためにウィスキィを手許に残しておける、というのが、もう酔っ払いにはありえなくないですか? 自制心がありすぎますよね」 「まあ、それはそうだね」小川は笑って引き下がった。 「だけど、三澤さんのお父さんは、逮捕されていませんね」真鍋は言った。「やっぱり、娘を守ろうとしたんですね」 「今頃、日本一凄腕の弁護士を大金で雇っていると思うな」小川は言った。「鷹知さんにいろいろ調べさせたのも、警察が知らない情報を入手して、裁判を有利に運ぶつもりだったんじゃないかしら」 「そのへんは、僕、よくわかりませんけれど」 「ほら、ちょっと精神的に普通じゃなかったって診断してもらえば、無実になる可能性もあるじゃない」小川は天井を見た。「あ!」 「え?」真鍋も天井を見た。しかしなにもない。「どうしたんですか?」 「わかったの、あの、ポールに上げた意味が」小川は両手を合わせる。「精神鑑定で有利な材料になるからじゃない?」 「まさかぁ」真鍋は笑った顔になる。 「だって、ありえないことじゃないでしょう? そういう考えがあったんじゃない?」 「少しくらいは、あったかもしれませんけど」 「絶対そうだわ」 「人間の行動って、そもそも一つの理由だけで決まっているものではないと思います」真鍋は言った。「そのときの瞬間的な判断でさえ、いろいろなことに思いが巡るもんじゃないですか」 「うん、そうね」 「それをですね、動機はこれこれこんなことだとか、いちいち理由を決めて、そんなの間違っているとか、納得がいかないとか、議論すること自体がおかしいと僕は思います」 「またまた、理屈を捏ねる、そうやって」小川は笑った。 「たとえばですね。うーん、海岸で砂遊びをしますよね。山を作ったり、道路を造ったり、トンネルを掘ったりするじゃないですか」 「うん、するよ」 「あれは、どんな動機があってやるんですか?」 「そりゃあ、まあ、面白いからじゃない?」 「どうして、山を作っている人が、その次に違うものを作るんですか。それを壊したりするのはどうしてなんですか?」 「なんとなくよ、そんなの。作っているうちに、あ、こんなのどうかなって、自然に考えているだけじゃない」 「あとから、自分で考えても、どうしてそんなことをしたのか、わからないことってありますよね?」 「うん、あるある」 「人を殺すような場合って、いくら計画的であっても、その真っ最中にはかなりの極限状態だと思うんですよ。そういうときって、もの凄く沢山のことを考えて、よけいなことも思いついて、もう理解できないくらい、とんでもない行動をするなんて、ありそうじゃないですか?」 「そうかな。私、人を殺したことないからね」 「小川さんなんか、日頃、意味のないことしませんか?」 「自慢じゃないけど、無駄なことばかりしてるな」 「そうでしょう?」 「でもねえ、わざわざするかなっていうのがさ」 「そんなこといったら、犯人がしたことの中で一番不自然で理由にならないのは、殺人を犯したことですよ。罰せられるとわかっている、自分を破滅へ導くようなことを、どうしてわざわざしたんですか? 死体をポールに上げたことより、そっちの方が変じゃないですか」 「わかったわかった。君さ、弁護士になったらどう? そう、それ、良いかもよ。今から、必死で勉強して、法学部へ入り直しなよ」  また別のとき、真鍋は、小川と並んで電車のシートに座っていた。反対側のシートに赤ん坊連れのカップルが座っていて、その赤ん坊の顔を真鍋はずっと眺めていた。母親の膝に乗ってこちらをじっと見つめていたからだ。 「真鍋君、見つめられてない?」隣の小川が言った。 「ピント合っていますよね。可愛いなあ」 「可愛いと思う?」 「思いますよ」 「あ、そう……」 「何ですか? 小川さんは、赤ちゃんは駄目ですか?」 「うーん、いえ、そうね、可愛いとは思うけれど、でも、欲しいとは思わないんだよなぁ」 「産んだり、育てたりするの大変ですからね。犬みたいにいきませんし」 「そうそう。ペットじゃないから」  そんな話をしていたら、その赤ん坊が真鍋を見たまま急に泣き顔になった。  やがて声を上げて泣きだすのだ。 「あらら」小川が言う。「ほら、もっと面白い顔してあげなさい」 「面白い顔っていうのは、どんなのですか?」 「あ、もしかして、してた?」小川はそう言ってくすくすと笑った。 「小川さん、面白くありませんよ」  赤ちゃんは、隣にいた父親に抱っこされる。父親は立ち上がって、ドアの方へ移動した。そこで、赤ん坊をあやしている。少しは機嫌が戻ったのか。周囲の環境が変わったためか、赤ん坊は泣くのをやめた。 「あやすの、苦手ですよ、僕」真鍋は言う。 「赤ちゃんがいたの?」 「ええ、兄弟が多かったので。弟とか妹とか」 「へえ、そうなんだ」 「そうそう、人間の子供って、たかいたかいってすると、面白がるでしょう? 怖がりませんよね。犬なんか、あんなことしたら、びっくりしますよ。人間って、どうして恐いのが好きなんでしょう? ジェットコースタとかもそうだし」 「これは大丈夫だっていう理解力? 信頼?」 「危険を知らないだけなんじゃないかな。鈍感だってことじゃないですか?」 「そうかもね。鈍感だからこそ、ここまで、地球を支配できたのかもしれない」 「あ、そうか、鈍感だから、周りを気にせずに、その分よけいなことを考える暇があったんですね。だから脳が発達したんだ」 「君を見ていると、特にそれを感じるわよ」      *  インド料理の店だった。香辛料の香りが圧力を感じさせるほど充満している。彼女は、入口に立っていた黒人の店員に名前を告げた。日本語が通じるのか、と思ったが、「どうぞ、こちらです」という流暢《りゅうちょう》な発音と、過剰ともいえる笑顔で案内された。  一番奥の小さな部屋は、壁にオレンジ色の布が張られていた。目の細い象のシルエットが描かれている。  テーブルの向こうにいた男が、彼女を見て立ち上がった。 「お久しぶり、西之園さん」片手を差し出した。 「お元気そうですね」西之園は握手に応じた。  マジシャンの手は大きく、ソフトだった。そう、この手だ、と彼女は思い出した。色の薄いサングラスをかけた顔は、少し日焼けしていた。本名は宮崎《みやざき》という。幾つかの芸名を持っている男だが、一番最近は、仮面をつけ鷲津伸輔と名乗っていた。もちろん、今は仮面はない。素顔は、特に目立った風貌ではない。髪形も年相応に平均的で、これで背広を着てネクタイを締めていれば、壮年のビジネスマンか、学校の先生で通る。今は、どこかの国の民族衣装なのか、カラフルで大雑把な刺繍が施された白いぶかぶかの上着を着ていた。  西之園は彼の対面のシートに座った。二人だけだ。店員がメニューを置き、西之園から飲みもののオーダを聞いて出ていった。宮崎の前には既にビールのグラスが置かれていた。 「ますます、麗《うるわ》しくなられて」 「どちらにいらっしゃったんです?」 「まあ、それは良いとして……」彼は自分のグラスを手にした。「さきにいただいておりましたよ。すみません。日本のビールは美味しいねぇ」 「海外だったのですか?」 「ああ、しかし、どうも僕はついていないようです。身内で不幸が多すぎる」彼は溜息をついた。「せっかくマジックがブームだっていうときに。惜しいことをした。せっかくあそこまで育てたのに……」 「そうですね」西之園は頷いた。 「誰か、いませんか。若くて美人で、マジシャンになってみようっていう子」 「いると思いますよ、沢山」 「どこにいるんでしょう?」 「どこかに」 「たとえば、具体的にいますか? 身近に」 「いいえ」 「大学の学生さんで、いませんか? マジシャンに就職したいっていう子」 「工学部には少ないと思います」 「いや、工学部が一番人材として欲しい」 「それは、裏方なのでは?」 「いやいや、発想が欲しい」 「募集を出されたらいかがですか?」 「うん、そうですね。しかし、どうもこの頃の若者はね、ハングリィ精神が……」宮崎はそこでふっと息を吐いた。「あ、いや、やめておこう。こんな話をしたかったんじゃない」 「どんなお話がなさりたかったのでしょうか?」西之園がすぐにきいた。  店員が入ってくる。西之園の前にグラスを置いた。 「なにか食べます?」宮崎は彼女にきいた。 「いえ、お気遣いなく」 「あ、じゃあ、またあとで」彼は店員に告げた。 「ごゆっくりと」店員は頭を下げて出ていった。 「えっと、それじゃあ、とにかく乾杯を」宮崎がまた、ビールを持ち上げる。 「私のは、ラッシィですよ」 「なんでもけっこう」  彼女もグラスを手にする。二人のグラスが軽く触れた。 「東京に出てこられるとはね」彼は言った。「また、どういう心境の変化ですか?」 「心境の変化ではありません。単なる就職です」 「就職なんかする必要があるんですか?」 「はい」西之園は頷いた。 「いや、あの……」彼は苦笑いをした。「失礼。あの、お気を悪くされないように」 「いえ、大丈夫ですよ」 「そうそう、あの先生は? メガネの、えっと、何ていったっけ」 「犀川《さいかわ》先生」 「そう、犀川先生だ。どうされています?」 「いえ、特に変わりはありません。たぶん」 「那古野に?」 「そうです」 「ふうん」宮崎は頷き、グラスを口につける。「それは、その、なんていうのか、遠距離なんとかじゃないですか?」 「遠距離電話ですか? 今はインターネットがありますから」 「違う違う。惚《のろ》けているんですか?」彼は笑った。 「ああ、そうか……」西之園は気づいて、少し笑った。「惚けたわけではありません」 「相変わらずですね」  ストローを封から出して、グラスに差し入れる。その一瞬、彼女は遠距離の連想をした。しかし、すぐにチャンネルを切り換え、目の前の男に焦点を戻す。 「警察には?」西之園は尋ねた。 「いや、行っていない。捜しているだろうね?」 「捜しています」 「どうして?」 「おそらく、あの人殺しの仕掛けのことで、意見を伺いたいのだと思いますよ」 「どうして、僕に?」 「さあ」西之園は肩を竦めた。「私は、なにも話していません。疑わないで下さい。でも、日本の警察は優秀ですから」 「そうか……、まあ、あれはたしかに、彼女のオリジナルではない。教えたことがあった。絵に描いて、こんなふうだったとね。でもねぇ……」  彼はグラスを飲み干した。 「まったく、良いところで切れるな」溜息をつく。  テーブルにあったボタンを押した。すぐに店員がやってきた。宮崎は新しいビールを注文した。 「あ、やっぱり、なにか適当に持ってきて。ちょっと食べるようなもの。いきなりデザートでも良いよ」  店員は微笑んで頷き、出ていった。 「でも、何ですか?」西之園は尋ねた。 「何の話だったっけ?」 「絵に描いて、こんなふうだと教えた、と」西之園が再生する。 「ああ、うん、まあ、あんな程度のことは、誰だって少し考えたら思いつくことだ。特殊なものでは全然ない」 「でも、牧村さんには、そんなメカニズムのセンスはなかったと思います」西之園は言った。「私はそう感じました」 「じゃあ、なんですか、僕の責任だって言いたいのかな?」 「責任を感じられませんか?」 「うーん。感じないといえば、嘘になる。こうして、日本に戻ってきたのは、もちろん、それも少しあった。彼女に会うくらいはした方が良いだろう、と思ってね、人間として、というか、もちろん、赤の他人だったわけじゃないし」 「お仕事の関係以上のものがあったのですか?」 「恥ずかしながら、あった。ずっと昔のことです。だけど、それは、彼女の方がそう振る舞っていただけだ。彼女には単なるビジネスチャンスだった。僕は、本気になりかけてしまった。気づいて良かったよ、早めに」 「そうですか」 「ついてないだろう?」 「まあ、見方によっては」 「不徳の致すところだ」 「ええ、原因としてはありえます」 「ずばり言うなあ」  店員が新しいビールを運んできた。宮崎はそれにすぐに口をつける。口に泡をつけたまま、西之園を上目遣いに見た。やがて、その目がまた笑った形になる。 「どうして、こんなに不幸なんだと思う?」彼は鼻から息を吐く。無音で笑っているようだった。 「少なくとも、誰かの陰謀ではありません」西之園は言った。 「それは、そうだ、うん」 「ついてない方が、誰かに狙われるよりは、ましなのでは?」 「ああ、そうか、そうかもしれん」 「警察に行ってほしい」 「うん」宮崎は頷いた。「そう……、君の頼みだというのなら」 「私は頼みません」西之園は微笑んだ。「でも、牧村さんのために」 「彼女のためか……」 「牧村さんは私に、箱のネタを公開しないように、と言いました。私は警察にそれをお願いしました。できるかぎりの手を尽くしました。ですが、警察はしぶっています。マスコミも知りたがっている」 「だから、どうしろと?」 「それは、鷲津伸輔のトリックだったとなれば、警察は納得するでしょう。公開すれば、業務妨害だとおっしゃって下さい」 「なるほど。無茶苦茶だな」宮崎は口を歪めた。「そんなことしたら、鷲津は、人殺しマシンを作った悪人だと思われる」 「そのリスクはあります」 「いや」彼は片手を上げる。そして今度は微笑んだ。「それで良い。望むところだ」 「ありがとうございます」 「わかりました。約束する」 「感謝いたします」西之園は頭を下げた。「では、私はこれで」彼女は立ち上がった。 「なんだい、もう帰るのか?」 「ごめんなさい。授業があるのです」 「こんな時間に?」 「ええ、夜間の部があるので」 「へえ、定時制? そうなんだ。大変だね」 「仕事です」西之園は時計を見た。 「仕事なんてしなくても良いのに。どうして……」 「失礼します」 「気をつけて。また、ゆっくり会いたいな」  西之園は部屋を出た。ラッシィを半分も飲んでいなかった。店を出て、通路の突き当たりでエレベータを待つ。  仕事なんかしなくても良いのに?  生きなくても良いのに?  殺さなくても良いのに?  どうして、どうして、どうして?  目まぐるしく、数々のシーンが頭の中で展開した。けれど、エレベータのドアが開くまでに、再びすべて凍らせ、冷凍庫の中に押し込んだ。  自分が死ぬ間際には、沢山の「どうして」が一挙に解凍されてしまうのだろうか。それとも一緒に消えていくのか。  エレベータを降り、ロビィを抜けて建物を出た。携帯電話を取り出して、遠距離電話をかけようと思った。けれど、今自分は急いでいるのだ。そんな場合ではない。  こんなふうにして、モニタの名前だけを見て、何度かけ損なっただろう、と彼女は思った。 [#ここから5字下げ] 冒頭および作中各章の引用文は『予告された殺人の記録』(G・ガルシア=マルケス著、野谷文昭訳、新潮文庫)によりました。 [#ここで字下げ終わり] [#改ページ] 底本 講談社 KODANSHA NOVELS  タカイ×タカイ  著者 森《もり》 博嗣《ひろし》  二〇〇八年一月十日  第一刷発行  発行者——野間佐和子  発行所——株式会社講談社 [#地付き]2008年6月1日作成 hj [#改ページ] 置き換え文字 a' ※[#「アキュートアクセント付きa小文字」、1-9-55]「アキュートアクセント付きa小文字」、1-9-55 i' ※[#「アキュートアクセント付きi小文字」、1-9-67]「アキュートアクセント付きi小文字」、1-9-67 o' ※[#「アキュートアクセント付きo小文字」、1-9-73]「アキュートアクセント付きo小文字」、1-9-73 掴《※》 ※[#「てへん+國」、第3水準1-84-89]「てへん+國」、第3水準1-84-89 頬《※》 ※[#「夾+頁」、第3水準1-93-90]「夾+頁」、第3水準1-93-90 顛《※》 ※[#「眞+頁」、第3水準1-94-3]「眞+頁」、第3水準1-94-3